44.フェルマータ・M・ラトメの供述
フェルマータの牢はいやに豪勢だった。
そもそもここは牢ではない。
広々とした一室。
シンプルな家具。

流石"神の子"の殺人鬼。
冷たい牢獄の奥でひっそりと、フェルマータは暮らしていた。

「ああ…マユキ様、ようこそいらっしゃいました」
「フェル…様」

獄中の人とは思えないほど穏やかに笑ってみせたフェルマータは、
自分のテーブル越しの椅子にマユキを促した。
マユキはエルディ達の待つ扉のむこうをちらと見てから、ゆっくりと腰掛け、うつむいた。

「あの…フェル様、私…フェル様に謝らなくちゃいけないと思って」
「まあ、何を誤るというのですか?
マユキ様の謝ることなどなにもないでしょう」

さらりと流したフェルマータ。
思わず、マユキが顔を上げると、彼女は…微笑みを浮かべこそすれ、瞳は鋭くマユキを射抜いていた。
…赤い印。"神の子"の刻印。
まるで、その先を言ってはいけないと咎めるように、フェルマータはマユキを制していた。

「……そ、うです、ね」
「ええ。でも丁度良かった。
私もあなたにお話がしたいと思っていたのです」

ふ、ひとつ息をついて、フェルマータはまっすぐにマユキを見据えた。

「マユキ様、私が、あなたと…
そしてラファ様の巫子継承を止めようとしていたこと、ご存知でしたか?」
「え?はい、トレイズとエルディが、
毎日無人廃墟の館に来てたって…それが?」
「何故止めようとしたのか…考えたことはありますか?」

マユキはフェルマータを見た。
神の子はそっと自分のまぶたに指先で触れた。

「我が第一の赤い印は…歴代の"神の子"に伝わる、
言わば"神の子"の証のようなものです。
この印は神の子の血族しか認めない。
今、こうして貴宿塔の者達が継承者探しに騒いでいるのは、
ひとえに"神の子"の継承者は、第一の赤い印も共に継承する必要があるからです。

印に認められて初めて、ラトメは"神の子"を認めるのです」

だから、今ラトメは混乱しているのだ。
"神の子"の不在。継承者は行方不明。
縋る者を失った、ラトメの民衆たち。

「血には逆らえない」

いやに神妙に、フェルマータは呟いた。
「私がそうであったように、マユキ様も、ラファ様も、きっと同じこと。
ラトメ一門とノルッセルは、決して相容れない。
…あなたはラトメの血を引いている。
ノルッセルの末裔であるラファ様とは、根本的に"血"が違うのです」

過去夢の君。瑠璃の瞳。
紛れもなくノルッセルに犯されたラファ。
とはいえ、マユキは内心でぐるりと心臓が跳ねるのを感じた。
だって、自分とラファは、間違いなく親友だというのに!

「言ってる意味が分かりません!
私が、その…ラトメの血を引いているからって、
それに、ラファがノルッセルの人だからって、
私達が親友だっていいじゃないですか!」
「ええ、いいのです。…よかったのです。
あなた方が、"赤い印"を継承することさえなければ」

フェルマータに気圧されて、マユキは口を噤んだ。
目の前の女性は、感情の読めない血色の瞳をそっと伏せた。
「赤の巫子にさえならなければ、あなた方はその血に気づくことなく、
一生を終えることができたでしょう。…ラファ様のお父上のように。
けれど、巫子になってしまったから、
自分が不老不死の血族だと知ってしまったから、
ラファ様の中のノルッセルが目覚め、そしてあなたは知ってしまった。

わかりますか?
"知る"ことは何よりの罪なのです」

マユキは訝った。目の前の女性は何を言いたいのだろう?
それを感じ取ったのか、フェルマータは詠うように言った。

「人は"知る"ことに貪欲です。そして、未来に臆病です。
彼のエルミリカ・ノルッセルでさえ、
自らに迫った"死"という未来に怯えて規律を捻じ曲げた。
異分子はエルミリカを生き返らせるために、
世界の破滅に貢献することとなった。
ミフィリは異端者を死なせないように、自分の命を赤い印に捧げた。
世界創設者たちは赤い印の力を恐れて、赤の巫子を生み出した…」
「……!!」
「あなた方は持っているのですよ、マユキ様。
人々が怯える未来すら失くしてしまいかねない、未知に満ちた強大な力を、
この世の真理を何も知らない、無知な学生が」

トレイズは知っている。
人が人の命を奪うことの恐ろしさを。
ギルビスは知っている。
一番近しい人間を失うことの虚しさを。
ラゼは知っている。
大切な者が自分を庇うことのもどかしさを。
ロビは知っている。
持ちたくもなかった力を持ってしまうことの苛立ちを。

けれどマユキは。そしてラファは。
仲間達が皆"印"を継承する前に垣間見た死の片鱗を、
自分達だけは、知らぬままに、この強大な力を手に入れた。

そう思うと、途端に恐ろしくなってくる。
言い知れぬ寒気を感じて、マユキは自らの腕を抱いた。
牢の廊下とは違いここは暖かいはずなのに。
フェルマータは自虐的に笑んで、マユキから視線を逸らした。

「…私にはそれが恐ろしく感じたのです。
何も知らないほうがずっと幸せだったでしょうに、
そして何も知らずに生きていれば、
あなた方は平凡な一生を送れたでしょうに。

…私も所詮は"人の子"です。
未来を知るという行為に、そして未来を変えんとする好意に、
強欲な一人の人間でしかありません」

"神の子"などという忌まわしい肩書き以前に。
うめくように付け足したフェルマータ。
初めて言葉を交わしたときはあんなにも堂々と優美に見えていた彼女が、
みるみるうちに小さく見えた。
マユキは無性に腹が立った。

「でも、でも!私はもう巫子なんです、
この力を使って、私はみんなの…ラファ達の、少しでも助けになりたい!
…ラファなんて、ゼルシャで刺されて、巫子じゃなかったら死んでた…
そんな風に、私には命懸けで人を助けるなんて、怖くてできないけど、でも!

私も、この力で何かできることがあるのなら、
"神の子"だって"ラトメ"だって、何でも受け入れます」

「私にもそう思っていた時期がありました。
ですが…これは、人殺しの力です。
どんなに綺麗事を並べたとしても、
所詮は"第九の巫子"を殺すための道具でしかあり得ない」
「じゃあなんで、」

とうとうマユキは声を荒げて椅子から立ち上がった。
机越しのフェルマータを見下ろして、顔を歪めて問うた。
「なんで、私に『第九の巫子を殺さずに済む方法』なんて教えたんですか…!」

マユキがそれを知らなかったら、あるいはこの役目を引き受けなかったことさえ考えられる。
自分はラファが思うほど崇高な存在ではない。
いつだって自分が可愛いし、自分を最優先に守りたい。
その方法を知らなければ、マユキもラファと共にラトメから逃げていただろう。
人殺し?そんなもの。
誰が進んでなろうと思うものか。

けれどそれを回避できるなら、
切望していた非現実の世界に飛び込むのも悪くない、と。

睨まれたフェルマータは、わずか…ほんのわずか、
指先をふと揺らして、悲しげに微笑んだ。
それは"神の子"の表情ではなかった。

「誰が、」
か細い声だった。
「この世界で母と呼ばれる人の中で、
誰が自分の娘を人殺しになんてしたがるでしょう?

…たとえ、それを世界が望んでいたとしても」

絶句、した。
マユキはさあと青ざめて、拳を握り締めた。
フェルマータは続ける。
「結局は私のエゴなのです。
…マユキ様、どうぞお忘れなきよう。
あなた方の持つその力は決して美しいものではないこと。
そして、

ラファさまはどう足掻いても、異分子の孫でしかあり得ないということを」



ひとまずユールを助け出さなければ話にならない。
そう結論づけたラファ達は、
一旦話を切り上げて疲れた身体を休ませることとなった。
この話はマユキにもしなければ。
長い夜になりそうだ。
窓から見える、神宿塔に半分隠れた銀色の月を見るともなしに見て、ラファは嘆息した。

「ラファ」
澄んだ声。振り返ると、薄暗い廊下のむこうからエルミリカが姿を現した。
「エルミリカ…」
「いい月夜ですね」

彼女はラファと並んで月を見上げた。
「…私がこの時代に来て初めて見た景色も、こんな月夜でした」
そう言うエルミリカの瞳は夜闇よりも深かった。
彼女はこの時代に来たとき視力を失っていた。
それを治したのが…確か、チルタ。

「チルタは愚かですが馬鹿ではありません。
第九の印を継承したのも考えがあってのこと。
ラファ、あなたを狙うのも、決して力を欲するばかりのことではありません」
「どういう、ことだ?」

エルミリカはゆっくりとラファを見て、
右手の薬指に嵌めた銀の指輪を取り、ラファの手のひらにゆっくりと載せた。
すっかり馴染んだ、心地よい冷たさ。
エルミリカはにこり、笑った。

「覚えておいてください。『使えるのは一度きり』です」
「何を…」

その時、
ぱん、弾けたようにラファの足元に魔方陣が浮かび上がった。
陣から溢れた光。
きゅっとエルミリカがラファの手を握る。

「この世界を生かすも殺すも貴方次第。
ラファ…私の、私達の運命を、貴方に託します」
「ちょっ…どういう意味だよ、エルミリカ!?」
「銀時計を」

言われるままに左手首に視線を落とすと、
動きのおぼつかなかった状態の針が、
今は狂ったように反時計回りにぐるぐると回転している。

「ラファ、これから行く場所では、
あなたの一挙一動が大きな影響を及ぼします。
下手をすればあなたの"今"の存在ですら危ういくらいに。
それでも、」

切羽詰った様子で矢継ぎ早に言うと、エルミリカは柔らかく微笑んだ。
「ラファ、貴方の行く道に幸があらんことを」

そっとエルミリカがラファから手を離すと、
まるで風船にでもなったように、ラファは自身が浮き上がって、
飛び上がって、月に向けて、放たれていくのを感じた。
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