もう、波は消えない
インテレディアの名もなき村にその少女は住んでいた。
いつも窓の外に何かを探すように視線を彷徨わせて、
もしかしたら失くした記憶を探しているのかもしれないわね、
彼女の世話をしてやっていたソラは憤然と言い放った。

「もうこうなったら荒療治よ!ユールって言ったわね、
ピルの記憶を無理矢理でも穿り返してちょうだい!」
「…ソラ、僕は時々君になんて突っ込めばいいのか分からなくなる」

ピルの家の前で仁王立ちするソラに、ギルビスは顔をしかめた。
第三の赤い印をもってしても、彼に癒せるのはあくまで外面的な怪我だけ。
心の傷までは癒せない。
けれど医者の卵として彼女の病状を見ておきたいから、とくっついてきた彼を、
ユールは戸惑ったように見た。
ファナティライストで一緒に捕まっていたよしみ、だなんて冗談混じりに言って、
厚意でユールを家に招いてくれたギルビスには感謝してもしきれない。

ピルが記憶を失くしたのは自分の所為なのだと、
ユールは自身をそう戒めていた。
だってそのはず、彼女は自分を守るためにルナに加担していたという。
自分は何も気づかなかった。何も考えずに姉の仲間の手助けをしていた。
…占いは、いつだって自分の大切なものは守ってくれない。

「なんにせよ会ってみればいいよ。
もしかしたら彼女も何か思い出すかもしれない。
…ただ、無理に記憶をこじ開けようとしてはいけないよ」

彼女のカウンセリングをしてくれているというフェイの父親は、
あやすようにユールの肩に手を置いて穏やかにそう言った。
ユールは僅か頷いて、ソラに続いてピルの家へと足を踏み入れる。

「ピルー?いる?友達連れてきたんだけど!」
「あ、おはよう、ソラ」

ピルは窓の前に立った椅子に腰掛けていた。
外の景色を眺めていたのだろう、彼女の膝に置かれた本は閉じられたまま。
彼女は、ルイシルヴァにいた時と寸分変わらぬ明るい笑顔を浮かべて、
ソラを快く迎えた。
…以前はどんなに離れていても真っ先にユールの名を呼んだ彼女は、
ものめずらしそうにこちらを見ている。
ソラの紹介を待っているようだった。

「ピル、こっちの暗い奴が前に話したギルビスよ。
それで隣のぼけっとした奴はユール。レクセから来たんですって。
ピルの昔のことを…」
「ソラ」

ユールがピルが記憶を失くす以前の知り合いであることを仄めかしそうになったソラを、
とどめるようにギルビスが鋭く名を呼んだ。
それに首を傾げるピルに感づかれないよう、
ユールは精一杯の笑顔を浮かべた。
もとより薄い笑みしか浮かべないユールにとっての精一杯は、
もしかしたらピルにはかえって違和感を感じたかもしれないけれど。

「…"はじめまして"、ピル。ユールです」

男にしては小さい手のひら。
彼女はあっけらかんと笑って、「その分ユールの手は暖かいからいいんだよ」と言ってくれた。
もうそれを覚えていないピル。
差し出したとき、彼女はやっぱり男にしては小さいと思っただろうか。
それとも、以前と同じことを言ってくれる日が来るのだろうか。
とにかく彼女は前と同じ笑顔で、明るくユールと握手した。

「よろしく、ユール!あたしのことはピルって呼んでね」

記憶のないピルはきっと不安だろう。
そんなことはおくびにも出さず気丈に笑ってみせる彼女。
昔だったら、
きっときっと、すぐにユールに泣きついてきただろうに。

ユールは泣きたくなった。
けれど泣くわけにはいかなかった。
ピルが自分を守ってくれたことを、たとえこの少女が覚えていなくても、
自分は返してやらなければならないのだと。
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