50.世界王
ファナティライスト神殿の奥深くでその会議は行われるという。
長机が置かれた一室。
その上座の、一際豪奢な椅子に掛けた男は、
部屋に入ってきたラファ達を見るなり柔和に微笑んだ。

その髪はモスグリーン。見た目の年齢では30にも届かないように見えるだろう。
髪と同色の瞳は奥深く、彼の意思を読み取ろうと思うことすら難しい。
黒い衣装をゆったりと着込んでいる。

世界王シェーロラスディ・T・ファナティライストは、
息子とは似ても似つかぬ穏やかな口調でラファを迎えた。

「ようこそファナティライストへ。歓迎するよ、ラファ君」

シェーロラスディは、チルタとラファを席に着くよう促すと、親しみを込めてにこりと微笑んだ。
「君の話はチルタからよく聞き及んでいるよ。
私はシェーロラスディ・トルシェ・ファナティライスト。
一応世界王のようなことをやっている」
「あ…あの、ラファ、です」
「はは、そんなに硬くなることはない。私のことはシェロと呼んでくれ」

そんな、恐れ多い。硬くなるなというほうが無理な話だった。
彼はとても温和そうなのに、どこか有無を言わせぬ威圧感があった。
彼に見られただけで、射抜かれたような衝撃が走る。
彼が口を開くだけで、身体が硬直し身構えてしまう。
これが世界王の威厳だとでもいうのだろうか。
しかし不思議なのは、そうした圧力が不快ではないことだった。

否が応でも従いたくなる王者。
シェーロラスディ陛下は、それを体現しているように見えた。

シェーロラスディの左の傍ら、腰掛けたファレイアが声をあげた。
「見ての通り、世界王としての立場を十分にご理解なさっていない方ですから、
遠慮は無用ですよ、ラファ君。
…ああ、チルタ。立っているついでにお茶を淹れてきてくださいな。
じっくり煮出す茶葉がいいですね」
「…はい、お待ちください」

ちらとチルタを見て、意味深に微笑むファレイア。
その意図を汲むと、チルタは何の反論もせずに、
本来は侍女のものであるはずの役目を受けて、一旦会議室を後にした。
一瞬だけの、沈黙。シェーロラスディが口を開いた。

「さて…ラトメの惨状はこちらにも知らせが届いているよ。
フェルがとうとう立場を捨てたというじゃないか。
これは、巫子としての役目も変わってきたね」
「どういう…?」
「ラトメの集める"赤の巫子"。
その目的は、世界を滅ぼすという"第九の巫子"の消滅…
つまりチルタを殺すことだというのは、勿論知っているね?」
「…!」

ラファは息を呑んだ。
そういえば、第九の巫子の消滅のためには、
チルタ以外の巫子を全員集めなければならない。
しかし、今や第一の巫子フェルマータは牢獄の中だ。

「しかも彼女はよりにもよって貴宿塔のエッフェルリスの監視下だというし、ね。
彼のことは私も知っているよ。
ラトメに生まれついていながら、"巫子"の伝承すら半信半疑の堅物さ。
それだと巫子だからと言って牢から出してくれることに期待などはできないだろう。
…まあ、今更というべきか、フェルのほうにボロが出てしまったわけだ」

盛大に、わざとらしく、且つ楽しそうにため息をついてみせた世界王陛下。
ラファは顔をしかめた。
「じゃあ、このまま世界が滅びるのを黙って見てろっていうのか!」
「うん?…ラファ君、君は今も本気で、チルタを殺したいと思っているのかい?」

絶句、だった。
二の句も告げずにいるラファに微笑みかけて、
シェーロラスディは卓上に組んだ自身の両手に視線を落とした。
「ちなみに、私は"否"だ」
「…!」
「何をそんなに驚いていらっしゃるのですか?
わたくし共ファナティライストが第九の巫子を保護しているのです。
守りこそすれ、何故に殺すことなどいたしましょうか」

ファレイアも当たり前のように頷くので、ラファは呆気にとられた。
世界を滅ぼす存在…
殺すことならいざ知らず、守るなど、
世界を統べる王の立場からして決して褒められたことではないだろうに。
目を瞬かせるラファに、シェーロラスディは穏やかに続けた。

「第九の巫子の持つ力は、…文字通り、"破滅"の力だ。
命を壊し、運命を壊し、そして世界を壊す。
しかし物事にはなんでも表裏があるものだ。
彼の持つあの力は…自身の心を砕いてしまう」
「……え?」
「皮肉な話だ。最初に出来た印だから粗悪な部分が多いのか…
彼のあの力は、少しずつ、少しずつ、しかし着実に、
彼の"心"を切り崩していく。
第九の巫子の力というのはね、人間が持つにはあまりに大きすぎるのだよ。
一旦リミッターを外して力を解放してしまえば、
チルタが"チルタ"足りうるその心…例えば彼の感情、
彼の記憶、彼の想い…それら全てを失うことになるだろう。

だから私が、彼が彼のまま生きられるよう、
この第十の巫子の持つ"封印"の力を持って、彼の力を制御している、というわけだ。

…とはいえチルタと離れすぎるとその効果は薄れるから、
あるいは何かしら力を暴走させてしまうこともあったかもしれないが」

ラファは思い出した。
インテレディアで「僕の力はまだ未完成だ」と言ったチルタ。
レクセディアで力を使ったとき、悲しげに笑ったチルタ。
そして、初めて面と向かって彼と出会ったとき。

――そう…僕が"第九の巫子"だ。君がいずれ、殺すであろう人間だよ

死への覚悟。心を失うことへの覚悟。
彼はどちらを願っていたのだろう。
…チルタは、この代償を知ってなお、第九の巫子となる道を選んだのだろうか。

「…チルタは、優しい子だ」
噛み締めるように、シェーロラスディは呟いた。
「とても優しい子だ。だが、世界の汚さを知っている子だ。
この世の不条理を知って、本気でこの世を憂えた場合…

その極限にある思想とは、"世界を壊してしまうこと"なのかもしれないね」

それは物理的かもしれない。
大地が割れ、水に呑まれ、そんなこの世のあらゆる天変地異を起こすことも、
あるいは世界の破滅といえるかもしれない。
もしくはこの世に住まう生命の命を皆砕いてしまうことも、
ある意味では世界の終わりかもしれない。

どうして。
「なんで、チルタは、そんなことを…」
「……約束を、」
ファレイアが、薄く笑みを、模った。
「昔、大切な人と交わした約束を果たすためだと、言っていましたよ。
どんな約束かは教えてはもらえませんでしたが」

約束。

――行こうよ!いつかレナが元気になったら、
ルナと、僕と、ラファおにいちゃんと四人で!
世界中旅して回って、誰も見たことないような場所にも行こう!


そうだ。自分は何を忘れていた?
そもそも何故レーチスとミフィリが赤の巫子を生んだのか。
何故エルミリカが赤い印を考案したのか。

彼が、チルタが望むものは、
「――この世の規律を、壊すこと…」

息絶えたレナ。
彼女を、生き返らせること。

「…馬鹿じゃないのか、あいつは!」

その原因を作った更なる原因がラファにあるとしても、叫ばずにはいられなかった。
ラファは世界王の御前だということも忘れて、
椅子を蹴倒して立ち上がると、会議室を飛び出した。

残されたシェーロラスディとファレイア。
「あらあら、シェロ様ったら、うまいことラファ君を誘導されたようですねえ」
「それを言うならファレイア、君の功績だろう?
見事にラファ君をけしかけたじゃないか」

してやったりな笑みを浮かべる食えない大人二人。
それから、シェーロラスディはなにやら口元に手を当てて声をあげた。

「おっと…そういえば、彼に"第九の巫子を殺さずに役目から解放される方法"を教えるのを忘れていた」

まあいいか。軽い調子でそう言って、
シェーロラスディとファレイアは上品な笑い声を上げた。



チルタはすぐに見つかった。
というより、彼は会議室の扉の脇で、うずくまっていたのだ。

「……チルタ」
声を掛けると、彼はちらとラファを見て、自嘲気味に笑った。

「…ただね、自分に出来ることはないかな、って…そう思っただけなんだ」
脈絡もなくそう言うチルタ。
会議室の扉がわずかに開いていることから、彼も会話を聞いていたのだろう。
「エルミの盲目を治したのも、そのため。
ノルッセルは、僕にとって特別だから」
「…"過去夢の君"と、"予知夢の君"をなくすって言ったのは…」
「…そもそも、そんな存在がなければ、君は狙われることはなかったんだから」

ノルッセルが狙われるのは、単にその身体的特徴に希少価値があるだけじゃなくて、
それを得られれば、自分にも過去や未来を見る魔力が備わると思ってる人がいるからなんだよ。
そう付け足して、チルタはようやく顔を上げて、まっすぐにラファを見上げた。

「…僕は、正直言うと、ラファ君を恨んでたよ」
そんな表情には見えなかった。
チルタは眩しそうにこちらを見上げていた。
「レーチスさんから、君は未来から来たって言われて、
ずっと…なんで僕を置いていったんだって怒ってやろうって、君を探してた。
シェロ様にも協力してもらって、それで、
ラファ君が第二の巫子になる可能性があるって言われて、
すぐに巫子狩りに迎えに行かせたけど、紅雨に、阻まれたんだ」

人を捕まえること以外の任務は歴史上初めてだって言ってたよ。
笑うチルタ。ラファは笑えなかった。
巫子狩りを迷うことなく斬ったトレイズ。
…彼らに、敵意はなかった?

「モール橋で君を見たとき、なんかもう…どうでもいい気がしたんだ。
ラファ君が、確かにそこにいて、生きてて、
無事でいてくれたなら、もうそれでいいんじゃないかって。
…笑っちゃうよね、君を脅かすのは、他でもない僕自身だって言うのに」

ラファは、笑えなかった。

「君のご両親を殺したとき、
もう僕は君の悪役になるしかないんだと思った。
あのときの言い訳をするつもりはないよ。
彼らを殺すのに迷わなかったのは事実だし、そこに大した悪意はなかった。
あのときは、過去夢の君を…君を産んだ彼らが、心底憎かった」

あらかじめ定められた台詞を辿るように、チルタの言葉は平坦だった。
ラファはもう限界だった。

「そんな僕を助けようなんて、思わないほうがいいよ。
シェロ様も、ファレイアさんも、僕を買いかぶってる」
「……………るな…」
「僕は彼やラファ君のように優しくないんだ。
こんな世界、簡単に壊したいと思えるんだから」
「…ふざけるな……」
「あはは!いっそ、世界の大罪人として名を残すのもいいね!
そうしたら、僕もレーチスさんに近づけるかな?」

「ふざけるな!!」

思いきり、右の拳で彼の頬を殴った。
彼は悲しげに微笑んだままだった。
それがまた悔しくて、ラファは叫んだ。

「ふざけるなよ!!俺は…ッ、俺だって、お前が憎いよ!
父さんと母さんを殺して、リィナを殺して、世界を壊そうとしていて、
お前が…、お前がいなきゃ、
俺はこんな非現実みたいな生活に巻き込まれずに済んだんだ!
だけど、だけどさ!
なんでそんな奴が…お前が、そんなに悲しそうに笑うんだよ!!
後悔してるみたいな顔なんてすんなよ!
もっと胸張って、俺を蔑めばいいだろ!?
お前が本当に"世界の大罪人"だって言うんなら、
もっと俺も、心置きなくお前を憎めるようにしてくれよ!」

ラファもまたうずくまった。頭を抱えた。
「……俺は、馬鹿だ…」
搾り出すような声。
「俺は馬鹿だ、俺は馬鹿だ、俺は…ッ」
「ラファ君、泣かないでよ…」
「うるさいッ!お前が…本当にこれまでのこと後悔してるなら、
もっともっと弱音吐いてくれよ!
強がってんじゃねえよ!」
「ラファ君、何が言いたいんだかわかんないよ…」
「うるせえよ…俺だってわかんねえよ…」

やさしく、背中をさするチルタの手。
しばらく動いていたその手はやがて止まり、ぽつり、チルタは呟いた。

「……どうして、だろうね」
か細い、チルタの嘆き。
「どうして、こんなことになっちゃったんだろうね」
ぱたり、真っ白な石の床に、チルタの熱い涙がこぼれた。

「レナを助けたくて、ラファ君と一緒にいたくて、
それで巫子の力を手に入れたのに、
どうして…どうしてこんなことしか、できなかったのかな?
何で僕は、"壊す"ことしかできないのかな?

僕…僕は、このまま、心とか、ぜんぶ壊れて、それで死んじゃうのかな?
…ラファお兄ちゃんに、殺されちゃうのかな?

………怖いよ、ラファおにいちゃん、こわいよ」

それは世界の大罪人にならんとする少年の叫びだった。
小雨のようにぱらぱらと落ちることば。
「たすけて…だれか、たすけて」

訴えるチルタのことば。
ラファは、その嘆きを聞くことしかできずに、
この不条理な世界を、うらんで、

「…ちくしょおおおおッ!!!」

無慈悲に彼らの涙を受け止める石造りの床を、強く叩くことしかできなかった。
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