49.過去に託して |
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レーチス・ノルッセルの手首には、 ラファのそれと全く同じ銀の腕時計が嵌められていた。 レーチスも同じところを見ていたらしい。 楽しげに、ああ、と声を上げた。 「君は、もしかしてラファか! 過去に渡ってくるなんて、さすがは俺の息子の息子! …って、俺のこと、分かるか?」 気安くラファの肩を叩くレーチス。 ラファは朧な視界で彼を見止めた。 「レーチス…」 「そう、天下の異分子レーチス様だ。 それにしても、どこもかしこも真っ赤じゃないか。髪が固まってるぜ。 おいおい、まさか怪我してるわけじゃないよな?」 「怪我は、してないけど」 レーチスの優しさは目にしみるようだった。 少し体温の低い大きな手が肩に乗っている。 世界に名だたる大悪党であるはずの彼が、今のラファには英雄に見えた。 「…なあ、レーチス」 「うん?」 「いきなりごめん。でも、頼みを聞いてくれないか?」 相変わらず煤だらけの顔でレーチスを見た。 彼はラファのその姿で何かを察したらしい。 優しく微笑んだ。 「ノルッセルは、一族の奴のためならなんでもできるんだぜ」 それが答えだった。 ラファは背に抱えていたチルタを見て、顔を歪めて頼んだ。 「こいつを…チルタを、預かって欲しいんだ」 「おいおい、俺に子守を頼む気か? 知ってるかもしれないけど、俺子供の扱いはものすごく苦手なんだよなあ」 レーチスは苦笑いを浮かべたが、ラファの願いを砕きはしなかった。 眠りの世界に落ちたチルタを受け取って、 まるで硝子細工に触るかのように恐々抱いた。 「ああ…やっぱり怖いなあ。 おいラファ、この子が未来でどんな奴に育ってても文句言うなよ」 「そうなったら黙って恨んでやるから」 うわあ、レーチスはチルタを起こさないように朗らかに笑った。 ラファは柔らかなチルタの頬にかかった髪をそっと払って、呟いた。 「俺はすぐに未来に帰るよ… 俺と一緒にいると、チルタが危険だから」 彼が目を覚ましたら、チルタはどんな反応をするだろう。 ラファは傍にいなくて、そして見知らぬ青年に託されて。 ラファを恨むかもしれない。 もう笑いかけてくれないかもしれない。 憎まれて、もしかしたら殺されるかも。 それでも、本来この時代に居場所のない今のラファが、 この時代の彼を連れて行くわけにはいかなかった。それがたとえ未来でも。 チルタは右手の薬指を見下ろして、そしてふと思い立って、 チルタの両手をラファのそれで包み込んだ。 「チルタ、お前の人生をめちゃくちゃにしておいて、 こんなこと、言える義理じゃないけど…」 目を伏せ、願った。 「チルタの行く先に、幸がありますように」 ふわり、夜風が舞った。 むせるほどの草の香り。 チルタにとっての未来が、自分の知るものより優しくありますように。 ラファは足元を見下ろした。 先ほど踏みつけた草は元の通りに立ち上がっていた。 チルタにとっての世界が、自分の知るものより美しくありますように。 「……俺、帰るよ」 「ん、そうか。気をつけて帰れよ」 まるで近所に住む友人に向けて言うかのごとく、 軽い調子で片手を上げてみせたレーチスは、 未来で会ったときと同じようにマイペースだった。 それがとても安心した。 彼に預ければ、チルタは大丈夫だと根拠もなく感じた。 右手の薬指に魔力を総動員させる。 ふわり、すっかり懐かしく感じる、銀髪の少女の手がラファに伸びた気がした。 おかえりなさい。囁く声。 再びあの浮遊感を感じながら、ラファの意識は遠ざかっていった。 ◆ どこか硬い床に倒れこんだ。 冷たい石の材質にひりひりと痛む頬。 その空気はラトメよりも冷たくて、シェイルよりも張り詰めていた。 ラファは気だるさを覚えつつ、身を起こした。 そこは庭園だった。 広々としたそこは大きな公園にも見紛うが、 自身の倒れている床は真っ白な石で出来ていて、 神聖な雰囲気を醸し出すそこは神殿であることが容易に見て取れる。 「ここは…どこだ?」 少なくとも今までに来たことがない場所なのは確かだ。 ラトメの建物とは違う。 他に、こんなに立派な神殿といえば… 「あらあらあら?こんなところで寝ていると、風邪を引いてしまいますよ?」 答えが喉まで出かかったときに、 いきなり庭園のほうから妙に上っ滑りな優しさを込めた声。 当惑したまま視線をやると、 黒い神官服を身に纏った若い女性が、 なにやら食えない笑顔で歩み寄ってきた。 黒い、神官服。やはりここは。 「このファナティライスト神殿で寝そべるだなんて、随分と度胸がおありなんですねえ。 それ以前に、そんな薄汚れた身なりで入ってこられては、 シェーロラスディ世界王陛下の聖域を穢していると思われてしまいますよ?えーと…」 「……ラファ」 「そうですか、とりあえずその衣服とお体をなんとかしないと。えーと、ラピー君?」 「だからラファだ!!」 以前も同じことを言った気がする。 既視感を感じながら反射的に怒鳴るも、女性は軽い調子で、 しかしちっとも面白くもなさそうにくすくす笑うと、ラファが立ち上がるのに手を貸した。 「ふふ、まあまあ、ちょっとからかっただけじゃあありませんか。 わたくしはファレイアと申します。 ファナティライスト高等祭司が一人です」 「………こ、高等…祭司?」 確か、今、高等祭司は二人しかいないのではなかったか。 片方が、チルタ。 すると目の前のこの女性が、もう一人の高等祭司? そんな馬鹿な。 何を考えているのか読めない笑みを浮かべて、ファレイアはラファの腕を引っ張った。 …華奢な体つきの割りに、とんでもない怪力だった。 「うふふ。話は後ですよ後。 とりあえずそのお召し物をどうにかしてしまいましょう。 わたくしの部屋へおいでなさいな。 美味しいお茶もご用意してさしあげましてよ」 彼女のおっとりとしたペースに完全に呑まれて、 わけもわからずにファレイアに連れていかれそうになったとき、 前方から、"ここ数日"で会った時よりも随分と背の伸びた少年が、ゆっくりと歩いてきた。 …天の助けと思ってしまったのは、マユキ達には秘密だ。 「ファレイアさん、もう会議の時間ですよ。 シェロ様がお待ちで…って、どうしてラファ君がここに」 「チルタ…」 「あらあら、もう見つかってしまいました。 せっかく会議を抜け出すいい口実ができたと思ったのに。 まったくもう、チルスケ君。駄目でしょう。 会議に来ない祭司なんて放っておかなくては」 「チルタです。 そう思うならちゃんと会議に出席なさってください。 …それに、彼は僕の友人ですから、勝手に連れて行かないでください」 苦笑のままにチルタが返す。 ファレイアはきょとんとして(どう見てもフリにしか見えない挙動だ) チルタとラファを交互に見ると、あらあら、とわざとらしく口元に手をのせた。 「すねないでちょうだいな、チルタン君。 わたくしはこのラフィ君の服を換えて湯汲みして差し上げようと思っただけでしてよ」 「ラファだ!」 「チルタです。 …そうですね、確かにラファ君はお風呂に入らないと。 じゃあ僕がラファ君を連れて行きましょう。 ファレイアさんはシェロ様に申し上げてきてください。 …またどこかに行かないでくださいよ」 きっぱりと言い切って、チルタはファレイアの手からラファの手を奪い取った。 彼の少々体温の高い手がぎゅっと握り締めてくる。 ファレイアはにこにこと裏の読めない笑顔でラファを見た。 小柄な出で立ち、細っこい身体。 しかしラファは絶対に彼女には勝てないと確信した。 「うふふ、愛されてるんですねえランベル君?」 「…あんた、それわざとだろ」 ファレイアは底知れぬ笑みをたたえたまま、 白い渡り廊下をのんびりと行ってしまった。 静かな庭園に残されたのは、ラファとチルタの二人だけ。 やわらかな太陽の日差しに照らされたチルタの笑顔は、穏やかに目を細めた。 「僕の部屋に行こう。そんな服じゃ君、まるで乞食みたいだ」 「チルタ…」 ラファがもの言いたげに声を上げた。 彼の過去に巻き込まれてしまった以上、 知らぬ存ぜぬで単に彼を憎んでしまうのは、ラファには至難の業だった。 ラファの言わんとしていることが、チルタにも通じたらしい。 彼は少し目を伏せ、ラファに背を向けると、 自室に向けて先陣を切って歩き出した。 「…僕はね、ラファ君。 もう一度会って、会って話したいと思ってる人がいるんだ」 その背中は、あの頃より広くなって、けれどちっとも頼もしく思えなかった。 「その人は、最後に会ったのはもう随分も昔で、 顔すら曖昧に思い出せないんだけど… 最後は煤だらけの顔で、服からは灰と血のにおいがして、 それで…すごく綺麗な瑠璃色の瞳をしていたんだ」 チルタは立ち止まった。振り返った。 ラファの動揺を包み込むように、やさしく笑んだ。 ああ、そうか。ラファは納得した。 彼はやはり、昔と今とで何も変わっていないのだ。 昔の通り内気で、穏やかで、子供らしい少年に違いない。 もうラファに、彼を責めることはできなかった。 自分も同罪。 ラファは目を伏せて、チルタの微笑みを受けた。 「やっと会えたね、ラファおにいちゃん」 |
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