--.エルミリカ・ノルッセル |
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ルナは黙りこくっていた。 妹と従者の起こした事件の真相を聞けば、この暴君は怒り狂うかと思われたが、 それに反して彼女の表情はひどく静かなものだった。 驚きもしなかったのは、きっと彼女にはラファ達の話に予想がついていたからだろう。 彼女は目を伏せて話に聞き入り、その体勢のまま時を止めて動かない。 「お、おい、ルナ…?」 彼女の噴火を恐れていては始まらない。 ラファがへっぴり腰で声をかけると、目を閉じたままルナが口を開いた。 「おい、開けてみてくれよ」 「え?」 「"黒い本"だ。レナの言ったことが本当なら、 その本はノルッセル一族のもんってことだ。違うか?」 ラファとレインは弾かれたように黒い本を見下ろした。 とある血筋の者にしか開けない。今まで特殊な一族については散々関わってきたが、 それでも自分が属しているはずのノルッセルについては謎だった。 過去夢の君、予知夢の君、そしてこの"黒い本"… ラファはゆっくりと、黒い革表紙に指をかけた。 ラファの指は何の抵抗もなく、表紙の裏側へと消えていく。 ルナやチルタが梃子でも開けることができなかった、 その黒い表紙は、ラファにはただの本と同じだった。 古い紙だ。少し触れただけで破けてしまいそう。 慎重に表紙を倒すと、黄ばんだ中表紙が現れた。 無地の紙の中央に、丁寧な、少し丸みを帯びた文字が現れる。 ―生まれなかったあなたへ。 そう、一言だけ。 ラファは指先でその台詞を辿った。 いつの時代の本かは分からないが、これを書いた誰かは、 名もない宛先に絶大な愛を込めたらしい。 文字の一角の終わりには、逐一インクが滲んでいたからだ。 強めの筆圧で、文字の部分で紙が僅か沈んでいる。 レインとルナが首を伸ばして、ラファと同じ台詞を眺めている。 二人に急かされて、ラファはもう一枚、ページをめくった。 そこには、中表紙と違い、文字がぎっしりと埋め尽くされている。 きっと印刷技術もない頃の本なのだろう。全てが手書きの文章は、 ところどころ折れ曲がり、滲み、塗りつぶして脇に修正が施されていたりと、 丁寧ながらも不恰好な描写が成されていた。 -------------------------------------------------------------------------- この本を開く者が永遠に現れないことを願いながら、 私の半生をここに綴ろうと思います。 私は、実のところ名乗る名を持ち合わせておりません。 私の名は何年も前に剥奪され、人々の記憶から消えてしまいました。 なので、私は今の通り名で、貴方に名乗りを上げたいと思います。 私の名前はエルミリカ・ノルッセル。 世界創設者が一人にして、おそらく世界を最も揺るがしたであろう、 ロゼリーの最後の女王です… -------------------------------------------------------------------------- 「エルミリカだって!?」 レインが素っ頓狂な声を上げた。 食い入るように見つめたその名前は、 やはり彼が面倒を見ていた少女のものと一字たりとも違いはない。 「待て、だけど、エルミリカの本名が剥奪されたってどういうことだ? あいつの名前は腐るほど歴史書に出てくるが、 そんな話は聞いたことないぞ」 ルナがそのまま視線を下ろして、文章の続きを追った。 -------------------------------------------------------------------------- これを見たあなたは私の名を知っているのでしょうか。 私の正体を知る者は、この名を好んで呼ぼうとはしません。 それもそのはず、だって私は、 「エルミリカ・ノルッセル」などではないのですから。 私は物心ついたときには、ロゼリーの次期女王、 正真正銘のエルミリカ・ノルッセル様の侍女としてお仕えしておりました。 彼女は大変理知的なお方で、身分を問わずお優しい方でした。 その反面、女王国の名を戴くロゼリーではそう珍しいことでもございませんが、 大の男性嫌いなことで宮中では有名なお方でもありました。 視界に男性が入ることすら厭い、ましてご自身にお父上の血が混ざっていることすら、 耐え難いとされるエルミリカ様の周囲には、 当然女性しかお仕え出来ませんでしたし、 当時の女王でいらっしゃったアラベスク陛下もそれにはお困りのご様子でした。 エルミリカ様は見目は大変お若く美しく、私と同じ年頃に見えるのですが、 実際は、伺ったことはございませんが、50は生きておられたのでしょう。 つまり、私が生まれた頃にはすでに30を越える年でいらして、 国内でも次期女王として大きな権限をお持ちでした。 だからでしょう、彼女は秘密裏にアラベスク様のご子息を、 アラベスク様のご存じないところで処分なさったのだと聞きました。 銀の髪に瑠璃の瞳はノルッセルの、引いてはロゼリー王家の証ですが、 それを併せ持つ少年が、蹄連合…世界創設者の原型ですが…の一員として現れたとき、 エルミリカ様は大層お怒りになられました。 河に捨てたはずの子供がどうして目の前に在るのかと。 その少年…レーチス・ノルッセル様は、自らのご身分もご存じなく、 ただその誠実で暖かなお人柄はアラベスク様によく似ておられました。 エルミリカ様のお話から、私も男性はあまり好ましく思ってはいなかったのですが、 粗野で野蛮だというエルミリカ様の男性像からは、 レーチス様はあまりにも遠く、そのためでしょうか、 私はすぐに彼を慕うようになりました。 エルミリカ様がお嫌いなレーチス様に恋慕の情を抱くことは、 あるいはあの方への裏切りでもあったのでしょうが、 私はそれに気づくにはあまりにも愚かでした。 レーチス様は私をよく気遣ってくださいましたし、 それだけでも余りある喜びだと自負してはおりましたが、 レーチス様が私と契りを交わしてくださったとき、 私はもう天にも昇る思いでした。 エルミリカ様のお気持ちも忘れ、私はレーチス様を選んでしまいました。 エルミリカ様がお気づきになられなければ大丈夫だと、 あの頃の私は傲慢にもそう考えておりました。 けれど、私がレーチス様との子供を身ごもったことで、 もうエルミリカ様に隠し立てすることは叶いませんでした。 あの方は大変お怒りになり、レーチス様を、 引いては、レーチス様をお産みになったアラベスク様をも、 恨んでおしまいになったのです。 もとより、恐れ多いとは思いますが、国を顧みる方ではなかったものの、 まさか私はエルミリカ様が、私とレーチス様が恋に落ちたとして、 ロゼリーを潰そうとなさるなんて、思っても見ませんでした。 レクセとシェイルの軍の手に私たちの王宮が落ちたとき、 私とレーチス様は行方不明になったエルミリカ様をお探ししておりました。 広間であの方を見つけたとき、もう彼女の目の前に軍人が迫っておりまして、 私は夢中であの方の前に出ました。 その時はこの身に宿った子供のことなど考えになく、 ひたすら主君を謀った罪と罰を償おうと、それだけを思っていました。 けれど、レーチス様はそうではなかった。 あの方はエルミリカ様よりも私などを選んでくださった。 過去夢の君であられたレーチス様は、そう、死んだはずの私の過去を、 私とエルミリカ様の運命をお変えになった。 気づいたとき、私は子供と、両目と、そして自分自身を失っていました。 目の前には"私"の姿をしたエルミリカ様が血溜まりの中に沈んでおられました。 気づけば私は、エルミリカ様の従者としての自分を失い、 代わりにロゼリー帝国の女王としての運命を背負っていました。 レーチス様は無意識下で力を発動なさったらしく、 結局のところ、私とエルミリカ様の精神が入れ替わったのか、 それとも肉体が入れ替わったのか、それすらも定かではありません。 とにかく私のエルミリカ様の従者としての人生はその場で掻き消え、 私は自分の名前や、記憶すらも次第にあいまいになっていき、 今となっては本当の"エルミリカ・ノルッセル"になる日も近いのでしょう。 彼女のお持ちだった予知夢の君の能力もこの私に移り、 名も知らぬ昔の私は人々の間からも忘れ去られていきます。 クレイリス達をはじめとする皆様は私をエルミリカ様自身だと信じ込んでいます。 だから私はこうして、今覚えている限りの真実を綴りました。 これを読むあなたには、私と同じように歴史から消えた、 昔の、本物のエルミリカ様を覚えていてもらえるように。 それが私の、せめてもの償いです。 私の子供は、生まれていたらどんな姿をしているのでしょうね。 いつか夢で見たような気もするのですが覚えていません。 きっとレーチス様に似た、優しく誠実な方であることを願います。 -------------------------------------------------------------------------- 数ページに渡って綴られた文章はそこで途切れ、 次のページからはひたすらに精霊の使役方法がつらつらと書かれていた。 ざっと全てのページに目を通すも、著者自身の思いが書かれたのはそれだけで、 だからだろう、この自白は本の中でもひどく浮いて見えた。 「どういうこと?」 レインがつぶやく。ラファとルナは顔を見合わせた。 偽者のエルミリカ・ノルッセル。 とすれば、ラファ達の知る彼女は、一体何者なんだ? それに、ラファにとってはパズルのピースがはまるように、 他に見たさまざまな情景が思い浮かべられた。 筆頭はゼルシャで見た王宮での記憶だ。 血みどろの中で両目を潰したエルミリカ・ノルッセル。 質素な使用人服を血に染めて纏って。 レーチスに限りない思慕を抱いていた、あの少女。 そうだ、レーチスは言っていたじゃないか。 「もう君の名前を呼べないなんて」、と。 まさか。あれがその記憶だとでも? 当惑するラファをよそに、ルナが口元に手を当てた。 「俺、分かったかも」 「なにが」 「いや…現実にそんな話がありえるわけが… いや、けど、エルミリカは予知夢の君だ、ありえないことは…」 「ルナ?」 「多分、クレイリスが探してるのはお前じゃない」 ほぼ断言する形できっぱりと言ったルナの台詞に、 ラファとレインは眉を寄せた。 「そんなことは分かってるよ。何を今更」 「だけど今まで確証はなかった。だろ? それで、なあ、俺の予測が正しければ…ラファ。 お前は"過去夢の君"であるはずだ」 ぎくりとした。ルナ達の知らぬところで過去を覗き見していたことは、 わざとではないにしろルナ達には言いづらくて、 まるで悪いことを暴かれた時のようにラファは肩を跳ねた。 図星だと言ったも当然のラファの挙動にルナは溜息をつく。 「やっぱりな」 「ルナ、どういうことなの?」 レインが尋ねると、ルナはさらりと言った。 「聖女クレイリスが探してるのは、おそらく、このレーチス・ノルッセルだ」 「レーチス…」 「なんで分かるの?」 「おいおい忘れたのかよ、レイン。クレイリスは、 ラファを誰かと勘違いして"過去夢の君"って呼んだんだぜ? つまり、クレイリスはきっと、ラファが"過去夢の君"だからレーチスだと勘違いした。 顔が似てたからとか、そういうんじゃなかったんだ」 「会っただけで、俺が過去夢の君だって分かったってことか?」 さあな、ルナは肩をすくめた。 「あのキチガイ女の考えてることはわからねえ。 でもな、きっと俺の予想が当たってたとしたら… そしてそれを、クレイリスの奴が気づいたら、ラファ。 お前はきっと危ないんだと思う」 「なんなんだよ、ルナ!何に気がついたっていうんだ?」 ラファがいきり立つと、ルナは神妙に目を伏せた。 「…今は言えない。確証が持てたら、きっと言うさ。 エルミリカに会いに行こうぜ。くそ、レナめ、あいつ、厄介なもんを置いていきやがって…」 ぶつくさ言いながら立ち上がり、 自身がドレスを身に纏っていることに気がついたルナはもう一つ舌打ちした。 「着替えてくる。親父がいないって知ってりゃ、 こんなビラビラした服着なかったってのに…あの馬鹿ども」 「せっかくだから女の子の格好すればいいのに。 アー…もうルナには男装する意味もないんじゃないの?」 不躾にも言ってのけたレインに、ルナは顔をしかめた。 「嫌に決まってんだろ。もう何年男の格好してきたと思ってんだ? 今更スカートなんて履くなんて絶対ゴメンだね」 ◆ が、ルナの消えていった階上でしばらくけたたましい音が鳴ったと思ったら、 戻ってきたルナは心底苦々しい顔で街の少女が好んで着ていそうな、 上品だが可愛らしい女物の服に身を包んでいた。 「あの女、俺の制服燃やしやがった! 次に会ったら覚えてろよ、絶対魔弾銃で頭打ち抜いてやる…!」 怒り心頭で現れたルナのスカートから覗く細くて白い脚を視界に入れて、 目のやり場に困りながらラファはしどろもどろに言った。 「い、いいんじゃねえの、似合ってるんだし」 「…視線を逸らして言われても説得力ねえよこの馬鹿」 「可愛いよ、ルナ」 フェミニストレインがにこりと笑いかけると、ルナはますます機嫌を損ねた。 廊下をずんずんと進み、とある部屋の扉を蹴破ると、 耳を真っ赤に染め上げたままラファ達を振り返った。 「さっさと行くぞ。ここがラトメに続く転移陣だ」 「あれ、転移じゃシエルテミナには来れないって言ってなかったっけ」 「そ。だからこっちからの片道通行。シエルテミナには戻って来れねえよ」 端的に言うなり陣の上に立つルナはこちらに手招きしてきた。 ラファ達が脚を乗せると陣が眩い光を放つ。 かすむ視界の中、どこか遠くから、柔らかな少女の笑う声が響いてきた。 |
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