29.策士たちの計略
シエルテミナ家において、何か重要事項を決めるとき、
当主の他にシエルテミナの重役ふたり以上の賛同が必要らしい。
「当主になること自体は、イヤリングを持ってればいいんだから簡単なんだが、
実質家を動かすには色々と手続きがあるんだよな」
というのがルナの言だ。
邪魔だとばかりにコサージュをテーブルに放ったルナは、
すらりと伸びた長い脚を組み替えて居丈高に言った。
「だから例の不老不死連合の一件に関しても、
シエルテミナが協力するにはそれなりの順序を踏む必要があるってことだ。
ま、俺と…レナは別に反対ってわけでもなさそうだし、
あと一人、俺の親父殿を頼る必要があるんだな」
「親父殿って、さっき話に出てた人じゃ…」
「そ。まあ奴も簡単さ。レナが一言差し挟めば嫌とは言えねえ。
ハッ、お手軽な一族だとは思わねえか?」

皮肉っぽく笑ってみせるルナ。他の一同は笑うどころではなかった。
ルナの父親が彼女の妹を異常なほど溺愛しているのは先ほどの話で痛いほど伝わったし、
そのことに対してルナが並々ならぬ私怨を抱いているのも分かった。
それでなくとも、彼女は父親から当主の座を奪った形になるのだ。
もしも会うなり襲われたら、いくら不老不死といえど無傷では済むまい。

そう指摘すると、ルナは不安がるどころか一笑してみせた。
「俺を誰だと思ってんだ?」
あんまりにも自信満々の彼女に、ラファ達はしばし瞠目した。
臆面もなく驚かれたことに気分を害したのだろう。
鼻を鳴らして、ルナはいつも通り皮肉っぽく口元をひん曲げた。
「シエルテミナ当主ってのは、確かにイヤリングを持っていりゃなれるもんだ。
けど、その辺にも色々と制約があってな。
一度当主が次代に渡れば、年増のジジイ共は永遠に当主の地位には就けない。
ま、細かい制約ってもんがいろいろあんだよ。
世代上では俺やレナが一番若いからな。
一世代で当主に就けるのは一人だけ。ってことは、
俺たちの子供が生まれるまでは当主交代もできやしない。
当主がいなくなるってのはこういう閉鎖的な一族では死活問題だし。
間違っても奴は俺を傷つけることなんてできやしないってわけ」

ルナ自身はそれを見越してイヤリングを奪ったわけではないのだろうが、
まるでその制約をも計算に入れたかのような台詞に、
やはり彼女はただの暴君ではないのだと改めて確信した。
カリスマ性があって、賢くて、人をどこまでも惹きつける。
女だろうと男だろうと、それでルナの人間性が損なわれるわけではないのだと。

ルナはひとつ伸びをして立ち上がると、肩を慣らしながら出口へと向かった。
「さーてと。じゃあさっさと親父に謁見願おうかな。
あの腐れジジイには俺とレナだけで十分だから、お前らはそこでゆっくりくつろいでろよ。
すぐに戻ってくるさ」
「ルナ、僕も…」
「チルタ、お前はラファ達をもてなしてやれよ。
殺されやしねえさ。俺が死んだところで困るのは規律に縛られたあいつらの方なんだから」

それでもチルタは心配そうにルナを見据えていたが、
彼女は背を向けていたため気づかなかったのだろう。
ひらひらと手を振りながら部屋を出て行く彼女を見送って、
チルタは盛大に溜息をつくと共に彼女の座っていたソファに崩れ落ちた。
使用人服の首元を留めた釦をいくつか外しながら、ルナの残した茶を一気に煽る。

「まったくルナは…」
「女の子の格好してても傍若無人ってやつだね、ルナ。
なんていうか…どういう対応をしたらいいのか、よくわかんないや」
戸惑い気味にレインが漏らすと、チルタは苦笑した。
「ごめんね、あの子も昔はああじゃなかったんだけど」
彼女の変貌における責任の一端は自分にあるとでも言わんばかりの口調だ。
見ようによってはそれも真実なのかもしれないが、
ラファには、チルタがあえて自分を責めるような言葉を選んでいるように感じられた。
「チルタって、結局、まだレナのことを…」
「好きかって?」
穏やかに返してきたチルタに恐る恐る頷くと、彼は笑みを吹き飛ばした。
目を細めてラファを見る。彼の鳶色の髪がさらりと揺れた。
首を僅か傾けたチルタの瞳が暗く暗く濁ったように思えたのは、気のせいだろうか。

しばらくの沈黙を経て、チルタはふと口元を綻ばせた。
いつもと同じ笑みのはずなのに、瞳の色は相変わらず淀んだままだった。
「レイン君はともかく、君は少しくらい不老不死一族としての自覚を持ったほうがいいね」
「うん…?」
「勿論いい意味でだけど、君は、…なんというか、擦れてない。
一般の子供として育てられたんだから当たり前なのかもしれないけどね」
「どういう意味?ラファは確かに単純だけど、だからなんだっていうの?」
さらりと失礼な台詞を吐いたレインに一喝しようとするが、
内心では自分も同じことを考えていたのでラファはそのまま閉口した。
それより何より、今聞くべきはチルタの台詞である。

「物事が持つのは一面だけじゃないってことだよ、レイン君。
ねえ、君たちはどう思う?
僕は彼女たちの護衛。忠誠は誓っても恋慕は抱いちゃいけない。
僕はただの人間。どんなに仲良くなれてもそれは永遠じゃない。
結局、僕は彼女らの使い捨ての使用人であるべきだ。
…だけど、ねえ、彼女たちはそれを望んでいるのかな?
だとしたら、彼女らに忠誠を誓う僕は、一体なにをすればいいと思う?」

抑揚なく謳ってみせたチルタはかつてなく空虚だった。
空気に自然となじむような希薄な存在感。
優しくて、お人よしで、苦労性だと思っていたチルタの姿は、
目の前にあるのに、だけどどこにもいないようで。
不意にチルタが、胸元の釦を再び外しだした。
北の民族らしい真白い肌が露になっていく。
「ルナは確かに変わったけど、内面は昔のままだよ。
彼女は絶対に僕を疑ったりしない。
ルナは、僕が可愛いレナの被害者だと思い込んで、
いずれは僕をシエルテミナから解放するんだって息巻いてる」

そう、真白い肌が露になっている。
だが、彼の胸にあったのはまっさらな肌だけではなかった。
彼の胸のど真ん中には、まるで生まれながらにして存在しているかのように馴染んで、
血のように真っ赤な十字架が、くっきりと刻まれていたのだ。
断罪のように。歪な信仰を表すように。
不気味な十字架は、チルタの心臓を狙ってじっとりと染み付いていた。

ラファとレインが二の句も継げずにその赤い印に目を奪われていると、
自嘲的にチルタは笑った。
「かわいそうなルナ」
釦を元通り留めながらくすくすと笑う。
「あの子は賢いから気づかないんだ。レナのあんな暴挙のせいで、
ルナは愛だの恋だの、そんなのは人を惑わせるだけだって信じてる。
彼女は賢明だから、決してそんな下らない感情に頼ったりしない。
自分の勘を信じてるから、絶対に僕が不老不死になるような馬鹿はやらないって、
そう、ルナは僕を買いかぶりすぎている」
「…不老不死?」
あえぐような声が漏れた。まさか、その印が。
「だって、ルナが許してないから、レナは、チルタを不老不死にはできなかったんじゃ…」
「"レナは"、ね」
神妙にチルタは言った。
「だから、"ルナは僕を買いかぶりすぎている"」
「……まさか」

レインがはっと息を呑んだ。ラファも同じだ。この少年は、まさか、まさか、まさか!
「グランセルド、ね。シエルテミナがお得意様とは言いえて妙だ。
奴らが魔弾銃なんて物騒な代物を持ってるのが何故か、考えたことある?
ねえ、この家に住んでる人を全く見かけないのは?
…当たり前だよ、だって、"いない"んだから」
「まさか、レナじゃなくて、お前が!?」
「ルナは僕にこそ儀式を禁じるべきだったんだ。
グランセルドを呼びつけて、貴重な魔弾銃を与えて、シエルテミナを滅した。
彼女のお父上にお伺いを立てる必要もない。
僕には逆らわないレナがひとつ頷けば、この家は満場一致で彼女の思いのままだ」

永遠に。付け足したチルタの表情は恍惚としていた。
あの自由だった暴君が、彼の言葉ひとつで籠に囚われた鳥のように思えた。
チルタからルナへの感情は、忠誠とも、恋慕とも取れなかった。
ただひたすらルナを愛でるように優しげな瞳は、胸の十字架と同じように燃えていた。

「狂ってる」
ようやく口を開いたラファから飛び出したのはそんな台詞だった。
チルタは困ったように眉尻を下げた。
「…ラファ君には全てを捨ててでも守りたいものがないからだよ」
有限な生も、老いも、主の家族も、何もかもを捨てて。
その主には一言もなしで。
それで、それで!
「それでルナが喜ぶとでも思ってんのかよ!」
「ルナが何を言おうと構わないよ」
静かにチルタは言い放った。
「僕はルナを守る。たとえ何を犠牲にしたっていいんだ。
…だって、それが僕の役割だから。
彼女たちがあの頃、僕と三人で在る永遠を望んだ。
ねえラファ君、レイン君、僕はそれを忠実にこなした、それだけだよ」
「それでも…ッ!」

「それでも、お姉様は決して貴方の不老不死を望んだわけじゃないわ、チルタ」

肩を震わせて入り口に視線を向ける。
そこには憮然とした様子で、レナが扉にもたれていた。
先ほどまでとは打って変わって凛とした表情の彼女は、
優雅に溜息を漏らすなりチルタの隣に腰掛けた。
「チルタを責めないでくださいな、お二方。
不老不死一族なんてものはこんなものですのよ。
どちらかといえばお姉様のほうが例外と言いますか…とにかく、
これがチルタなりの忠誠の誓い方なんですわ」
「…君、さっきまでの性格は演技だったの?」
レインの問いに、レナはふんわりと微笑むと、理知的に返した。
「それこそ愚問というものではなくって?
お姉様の手前、わたくしは悪役に徹するのが筋というものでしょう。
ただ、そうね、無理にでもお答えするならば、…そうです。
わたくし、お姉様に疎まれるのはとても心苦しいのですけれど、
それでも当主にしてわたくしの尊敬するお姉様が望むことならば、鬼にも悪魔にでもなりますわ」
呆然とするラファとレインの空になったカップに新しい茶を注いでやりながら、
レナは淡々と言葉を紡ぎ続けた。
「ラファさんやレインさんは、わたくし達を滑稽とお思いかもしれませんが、
限りなき生命を持つ私たちからしてみれば、かつてのわたくしたちの行動は至極自然ですのよ。
わたくし達は、お姉様が一般の方々と同じ思考だと気づけなかっただけ。
わたくしやチルタは、お姉様と、私と、チルタ。三人だけの永遠の箱庭を望んだ。
他にはなにもいらなかった。
けれどわたくし達、お姉様がそうではないと気づけなかったのです。
そうよね、あの方は昔から街に下りて民衆の目線に立つのがお好きでいらっしゃったわ。
あの方の世界はもっとずっと広い場所にあったの。
わたくし達は自分から、幸せな三人の檻を崩した。
お姉様がわたくしを軽蔑するならわたくしはそれに相応しい挙動を、
ねえ、わたくしって妹の鑑だと思わないこと?」

カップを口元に寄せたまま香りを楽しみながらレナはぽつりと言った。
「…ねえ、お姉様はレクセで、幸せそうかしら」
「……少なくとも勝手気ままではあるけど」
この二面性を併せ持つ少女にどう対応していいのか図りかねながらラファは答えた。
レナはくすりと笑った。実に満足そうだった。
「お姉様はこの家がお嫌いでしょう?」
「しょっちゅう滅びればいいとかなんとか…あ」

ラファは気づいた。レインも息を呑んだ。
彼女たちのやろうとしていることが、読めた気がした。
チルタが苦笑した。
「ルナがラファ君たちと出会えて、本当によかったって思ってるよ」
「おい、チルタ…」
「何も言わないでくださいな、ラファさん。
わたくし達、これが本望ですのよ」

そして少年と少女は二人共に立ち上がった。
ラファとレインが口を噤んでいる間に、レナとチルタは手を取り合って、
座り込む学生二人に視線を落とした。
「僕達が姿を消したら仕事は完了だ。
シエルテミナは事実上滅亡することになる」
「わたくし達は誰もいないどこかで永遠を生きますわ。
お姉様もきっとそれをお望みでしょう」

そんなわけがない!叫んでやりたかったが、
そう言えるだけの根拠はどこにもなかった。
今のラファやレインには、ルナの気持ちを代弁できるだけの知識が足りていないのだから。
「ラファさん」
レナがラファの目の前に手を差し伸べた。
上にした手のひらに、いずこからともなく黒い装丁の本が現れる。
…おそらく、ルナの話していた"黒い本"だ。
「これは貴方にお譲りします。ノルッセルの血を受け継ぐ者でなければ、
本来はなんの意味も成さない本ですもの」
「これって…」
「きっと、君の役に立つだろう。
それを読めば、あるいは君達の出逢ったクレイリスの謎も、
解けることがあるかもしれない」
「どういうこと?」

チルタは答えなかった。ただ穏やかに微笑んで、
レナにそっと身を寄せただけだ。
まるで晩年を迎えたように静けさに佇んだ二人は、
互いを慈しむように眺めていた。
それで気がついた。チルタは、やはりまだレナを愛しているのだと。

とんだ道化もいたものだ。
「ラファさん、レインさん、どうぞお姉様を、よろしくお願いします」
「またいずれ、どこかで」

言い放つ二人はラファ達の返答を待たずに、その場から掻き消えた。
残ったのは、ラファの両手にずしりと重くのしかかった、"黒い本"だけだ。

ラファとレインが、レナたちの消えた場所から視線を外せずにいると、
盛大な音を立てて入り口の扉が開け放たれた。
息せき切ったルナが、ラファ達しかいない応接間を見渡して舌打ちをする。
「あの糞野郎どもが…!」
毒づく彼女は、おそらく全てに気がついたらしい。
ラファ達は何を言っていいやら判別がつかずにわなないた。
「お、おい、ルナ…」
「全部話せ」

暴君は冷ややかに怒っていた。
その視線が、戸惑うラファを見、レインを見、それからラファの手元の"黒い本"に移った。
「あいつらの言ったこと全部だ。話せ…話せよ!」

怒鳴ったルナの気迫に気おされて、ラファとレインは慌てて唇を開いた。
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