19.過去夢の君 |
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この牢獄が迷路だと知ったときからなんとなく想像はついていたが、 やはり先頭をトレイズに歩かせるべきではない。 ただでさえ薄暗くて前後不覚の状態に近いというのに、 この男は気の向くままに曲がり角を折れるものだから、 流石のラファも来た道を戻ることもできない。 …しかも、この男、どうやらまだ自分が迷っている自覚がないらしい。 「うーん…左、かなあ」 「トレイズ、頼むから、もう少し規則性のある探索の仕方はできないのか?」 なけなしの勇気を振り絞って拝むと、 トレイズはようやく目を丸くしてラファを振り返った。 「え、俺、また迷ってた?」 「もうどこから来たのか分からない」 「ああ…そうかァ。まあ、妹に会えたら出口を知ってるかもしれないし」 大して気にした風もなくトレイズは再び歩き出した。 手近な十字路を左折しようとしたところをラファが押しとどめて、 無理矢理先頭を引き継ぐ。 …確かに、初めて会った森でもこの調子だったとしたら、 ラファ無しでゼルシャの村にたどり着いていたかも怪しいところだ。 ひとまず現在位置を把握しようと、 近くの牢にラファのネクタイを縛り付ける。 それからトレイズを振り返って、遠慮がちに問うた。 「なあ、さっき言ってた…過去夢の、君? それについて詳しく教えてくれよ」 「うん?」 トレイズは首をかしげた。 「別に俺も詳しくねえよ。人づてに聞いたことがあるだけ。 なんだっけ、どこかの一族で継承されてるって能力らしい。 なんでも予知夢の君と過去夢の君で二人セットになってて、 片方は未来を、もう片方は過去を視ることができるって話だ」 予知夢の君、過去夢の君。 まさに双子神エルと同じじゃないか。 先を促すと、トレイズは唸った。 「それで、あとはさっき言ったのと同じ。 そいつらは過去やら未来やらを変えることができる。 ま、そんなモン実在してるわけがないけどな」 「そっ、その一族って?」 「さあなあ。聞いたような気がするけど、覚えてない。 …おいおいラファ、そんな情けねえ顔するんじゃねえよ。 その過去夢の君が一体なんだってんだ。 ただの夢物語さ。考えたってしょうがない」 「……」 ラファは情けなく頷いただけだった。 憔悴した様子にトレイズは困り果てて髪をぐしゃぐしゃかき回す。 非情だとばかり思っていた殺し屋もこんな顔をするのか。 彼の人間らしい一面にラファは瞠目する。 つくづく思うがトレイズの挙動は非道からはかけ離れたものだ。 最初に会った時も、ナイフを投げられたとはいえ、 彼にとっては息をするように日常から滲み出た行為に見えた。 だから恐ろしいのだ。 彼にとっては、人を慰めたり、笑ったり、家族を愛したり、 それらの日常の行為と同列に「殺し」がある。 ラファにとっての非日常が、トレイズにとってなんら特別ではないからこそ、 彼の一挙一動がますます奇異に映ってしまう。 過去夢の君。 そのトレイズは夢物語だと一笑する。 しかし本当にそうなのか? ここ数日で、「夢物語」が現実に起きすぎた。 不老不死、聖女、世界創設者。 ならば「過去夢の君」が実在しても、おかしくないんじゃないか? …そんな考えがどこからともなく浮かんできたその時だった。 背後から、澄んだ声が響いてきた。 「過去夢の君、なんて」 思わず振り返った。そこに薄暗い牢獄があることを前提として。 しかし気づけばラファは、大理石の敷かれた美しい広間に立っていた。 …またか!ラファは息を呑んだ。 その広間はあちこち薄汚れていた。 汚れていた、というのも少し違う。あちこち、赤く染め上げられていたのだ。 脱獄を図っていなければ、少なからずラファから流れていたであろうもの… つまり、血だった。 「…ッ!?」 自覚と共にぶわりと鼻腔に入り込んだきついにおい。 ラファは腕を鼻に押し付けた。 後ろに一歩下がろうとすると、足元にできた血溜まりに足を取られて、 強かに尻を打ちつけた。 すると前方から、絶望に満ちた声が響いた。 「過去夢の君なんて、どうして存在するの」 そこに居たのは、エルミリカだった。 インテレディアまで一緒にいた彼女じゃない。 ミフィリと会ったときにやってきた彼女でもない。 今度の彼女は、使用人が着るような質素な衣装を身に纏い、 元は白かったのだろうブラウスを赤黒く染め上げていた。 今よりも幼く見えるのは、さらさらの銀髪が顎ほどまでしかないからだろうか。 そして衝撃的なことに、彼女の両眼は潰されていたのだ! 「ひっ…」 「大嫌い」 エルミリカはこちらを睨んでいた。見えていないはずの傷ついた眼球を-向けて。 これ以上ないくらいに顔を歪めて、怒鳴った。 「大嫌い大嫌い大嫌いッ!」 「……」 ラファにとっては、エルミリカという人は綺麗で、気高くて、 そしてとても穏やかな女性だった。 けれど目の前にいるこの少女は、…ただの、少女にしか見えなくて。 すう、手を伸ばした。ラファが意識してやったのか、 誰かに動かされているのかも、分からぬまま。 血の滴る彼女の頬を撫ぜる。エルミリカがぴくりと身じろぎした。 口が勝手に言葉を紡いだ。ラファがいつも口にしているより、 幾分か優しく、いとおしげに。 「…それでも、俺は好きだよ」 「……」 「好きだよ…」 ラファの目尻から何かあたたかなものが流れた。 自分にこんな声が出せるのかというほど切なげな台詞が漏れた。 「もう、君の名前を呼べないなんて…」 「…あなたの顔が、見れないなんて」 エルミリカがぼそりとつぶやいた。たまらずにラファは彼女を抱きしめた。 「嫌いなんて、嘘です」 「知ってる」 「好きです、どうしようもないくらい、好きなんです… レーチス様が、好きです」 愕然と、した。 レーチス? 急激に我に返る。 俺は、いま、「だれ」になっているんだ? 「レーチスって呼んで」 ラファのくちびるが意識していないところで動いた。 「もう君は侍女じゃないんだから、そう呼んだって誰も責めない」 「…そしてあなたは、私を"エルミリカ"と呼ぶんですね」 エルミリカがラファの胸から顔を離した。 見えない瞳から涙がこぼれていた。 「君をそんな名前で呼びたくない。よりにもよってあの女の名前で」 「呼ばなくてはなりません。私がこの姿である限り」 意味が分からなかった。 この姿?あの女?エルミリカは、一人じゃないのか? そんな時、不意に浮かんだのは、ラトメで彼女に言われた台詞。 ――貴方は自分を『自分は自分だ』と信じていれば、それでいいのです。 まるで「自分が自分ではない」という可能性が存在するかのような言い分。 あの時は、単純にラファへの励ましだと思って聞き流していたけれど。 …あれは、ただの慰めとは、別の意味を持っていたんじゃないか? エルミリカは、本当にエルミリカなのか? …俺は、本当に、「俺」なのか? 疑問に思ったその時、後頭部を小突かれた。 気づけばラファは牢獄に戻ってきていた。 振り返ると、ほの暗い石造りの回廊でトレイズの金色の瞳が鈍く光っていた。 「どうしたんだお前、ぼーっとして」 「と、トレイズ…」 トレイズは首をかしげている。 今の情景は、白昼夢か何かだったのだろうか。 ぼんやりする頭を振って、うわごとのようにつぶやく。 「…俺、は、俺だよな…」 「ああ?なんだラファ。また森での話の続きか? 大丈夫大丈夫、俺にはお前は二重人格者には見えねえよ」 「そういう意味じゃない!」 弾かれたように顔を上げる。 きょとんとしたトレイズと目が合って、さあと頭が冷えていった。 「…あ、ごめん、いや、なんでもない」 「うーん、よくわかんねえけど。ま、俺にとってラファはここにいるお前だけだし。 どこにでもいそうなただの学生にしか見えねえよ」 そう言ってぽんと叩かれた頭。 数拍置いて、ようやくトレイズの台詞が胸の奥にじんと広がっていった。 トレイズの広い背中を見ながら、頭に手をやる。 何故だかこの殺し屋の言葉が無性に嬉しかった。 「…ありがとな、トレイズ」 「あん?何か言ったかあ?」 「いや、なんでもない」 にやにやしているラファに、トレイズは眉をひそめたが何も言わなかった。 そしてようやく気を取り直して一歩前へ踏み出したところ、 奥のほうからくすくすと笑い声が飛んできた。 暗い地下牢に、鈴の鳴るような少女の声が大きく反響する。 「…なんだ?」 「くすくす、どうしてそんなに悩んでいるの?」 見ると、ラファ達の立っている道の突き当たりに、一際大きい牢がそびえていた。 その中に一人の少女が大人しく座っている。 金の髪に、瞳。細っこい身体に纏った薄手のワンピース。 この肌寒い牢獄で、彼女はノースリーブに裸足だったが、 少女は平然としている。 これまで、ラファ達以外の囚人に会うことはなかった。 こんなに広い牢獄なのに、中は空っぽだったし、 それに、この少女の出で立ちに、この金の瞳は、 すぐに正体がピンときた。 トレイズを見上げると、彼もまた呆然と立ち尽くしている。 「お前が、ラゼ?」 トレイズのか細い台詞は闇に溶けて消えた。 |
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