23.すべてにさよなら
少女の瞳は、病的に怪しく光っていた。
「純真」という言葉を目の中に詰め込んだらこんな色になるのだろうか、
穢れなんて何も知らないような顔をして、ラゼはラファ達を見ていた。

彼女はトレイズがあえぐように名を紡いだことに、頭をかたむけた。
形の良い、寒さで青紫色に染まった唇が弓形にひん曲がって、
「あなた、だれ?どうして私とおんなじ色の目をしているの?」
花のように愛くるしい声でそう囁いた。
つぶやくように小さな声だったが、この牢獄ではひどく大きく反響している。
いや、それとも、唐突に目の前に現れた彼女に衝撃を受けているからだろうか?

トレイズがよろめきながら一歩ラゼの牢に近づいた。
ラゼはゆるやかに鉄格子に白っこい指を絡ませて、トレイズの金目に魅入っていた。
「ねえ、あなたの名前は?どうして私の名前を知っているの?」
「俺は…」
腰を落として、ラゼの眼前に視線の位置を合わせると、
彼自身も戸惑いながら、トレイズはゆっくりと言葉を紡いだ。
「…俺は、お前の兄ちゃんなんだ、ラゼ。
俺はお前を迎えにきたんだよ」
「おむかえ?」
ラゼはびっくりした様子だった。
あどけない瞳を見開いて、心底不思議そうにトレイズをまじまじ見る。
ラファよりもひとつふたつ年下だろう少女は、
しかしやたらに幼く甘ったるい声で、熱に浮かされるように尋ねた。

「私にお迎えなんてこないよ、ルセルさんが…あ、ルセルさんって、
この村で二番目にえらいエルフさんだけど…言ってたもの。
私は人間の子だから、誰にも望まれていないんだよって。
ラゼは邪魔だから、邪魔な子は死なないといけないんだよって」

淡々と、感情の片鱗も見せずに語ってみせたラゼの台詞に、
トレイズとラファは思わず怪訝な顔を見合わせてしまった。
目の前の少女は、無垢な表情で二人の男を見つめて答えを待っている。
彼女が「殺しに快楽を覚える」なんて物騒な人間には見えなかったし、
その「ルセルさん」とやらの言いつけに従う、ただの子供だった。

「邪魔なんかじゃないよ、望んでないなんてこともない。
俺は、ラゼが幸せにやってるかって心配になって、
ラゼのいるところを探して、やっとここまで来たんだ」
「私の幸せ?」
するとラゼは、寒さで凍えそうなこの場所で、
ノースリーブのワンピース一枚という薄着で、
まるで春の日の芽吹きのようにあたたかな笑顔をぱあと咲かせた。
「うん、ラゼはとっても幸せだよ!
お母さんもとっても優しいし、ルセルさんはちょっぴり厳しいけど、
それにね、弟もいるのよ!とっても可愛いの!
可愛いって言うと怒るんだけど…でも、私がここに入れられてから会ってないの。
私、どうしてこんな場所にいるのかしら。
私はただ、ルセルさんの教えを守っただけなのよ?

邪魔なひとは死なないといけないんでしょう?
私、だから、お母さんがあのエルフさんたちがいると困るって言ってたから、
だから、殺してあげただけなのに」

ぞわり、途端に背筋が粟立った。
まるで世間話の一端のように流された言葉に絶句した。
ラファの表情の変化が、ラゼにとっては意外だったらしい。
どの言葉が失言だったのか不安そうに探りながら、
彼女はそれでね、と言葉を続けた。

「私はルセルさんの言うとおりにやっただけなのよ?
ねえ、私はなにか間違ってたの?
ここに入れられてね、食事を運んでくれるエルフさんのほかは、
誰も私に会いにきてくれないの」
「………いや、」

トレイズは蒼白になって突っ立っていた。
目の前の少女が自分の妹であることを突然疑問に思ったとでも言うように。
息を詰まらせながらようやく言ったのは、
ラファにとって信じられないものだった。
「いや、いや…ラゼは、間違ってない」
「トレイズ!?」

目の前の男はやっぱり危険人物なんじゃないか!?
今更ながらに雄たけびを上げようとすると、
トレイズが青ざめたままラファを見てきた。
「間違ってない。少なくともラゼにとってはな。
だけどな、全ての人が、そうだとは限らないんだ。
みんながみんな、人を殺すのが正しいって言うわけじゃないんだよ」

おかしい。
トレイズはおかしい。
殺し屋なんだ、頭のネジが一本や二本外れていたっておかしくない。
だが、ラファはトレイズがそんなにも狼狽する意味が分からなかった。

例えば彼が生粋の殺し屋だと言うのなら、
ラゼがこんな風に当たり前のように「死ぬ」だの「殺す」だの言うのを、
簡単に容易してしまえるはずだった。
だって、彼曰く「そういう風にできている」んだから。
しかしトレイズは、少女の様子にひどく衝撃を受けたようで、
今までの頼もしい背中はどこへやら、ぶるぶると震えていた。

「…幸せに、生きてりゃいいと思ってたけど」
吐き捨てるようにトレイズは言った。
「俺の望んでたのはこんなのじゃない。
こんな、…せめて、妹にはまだまだ『普通』に暮らせる余地があったのに」

ラファははっと気づいた。
そうか。
グランセルドは人を殺さないと生きていけないと言うけれど、
少なくともラゼには殺しを強制されずに済む環境が用意されていたはずだと、
トレイズは思っていたのだ。
「殺し屋一族」というくらいなのだから、トレイズは、
生まれたときから殺しの術を学んで育って、
他の人生など存在しなかったのだろうから。

「ラゼ、ここを出よう」

出し抜けにトレイズが顔を上げて言うと、ラゼはきょとんとした。
「どうして?」
「出たくないか?ずっとここにいたいのか?」
「だって、ここを出ちゃ駄目だって言われたわ」

ラゼという少女はとても保護者に従順な性格なのだと直感した。
よくよく見ると、彼女の剥き出しの腕は細かく震えていて、
寒さを我慢して表に出さないようにしている。
気づいた途端、ラファはトレイズの妹がとても哀れに思えた。

「なあ、」ラファは前に進み出た。
「お前は、今、なにをしたいんだ?
こんな暗い場所にずうっと閉じ込められて、
まさかずっとそうしていたいとか言うわけじゃないだろ?」
「…でも、ルセルさんに言われて…」
「そのルセルさんとやらはどうでもいい。"お前"は、どうしたいんだよ?
なにがしたい?今、いちばん、なにがやりたい?」

ラゼの真っ直ぐな視線を受け止めるのには勇気が必要だった。
ああ、くそ、こんなことなら、やっぱりレインに女の子の扱いってものを
教えてもらうんだった…ラファは舌打ちしたいのを寸でのところでこらえた。 恐ろしく純粋な彼女の金色は、やがて熱を持って、
頬をばら色に染め上げて、楽しげに言った。

「花畑が見たいわ!」
夢見る口調だった。トレイズが顔をゆがめた。
「あのね、お母さんが随分前に話してくれたのよ。
黄色や、緑や、ピンクや、いろんな色が一面に広がっていて、
その中に寝転んだり、花輪を作ったり、
お日様のあったかい光をいっぱい浴びて、
甘いにおいのする空気をたくさん吸い込んで、
ねえ、お母さんはそれがすごく楽しかったって言ってたの。
私も、やってみたいわ!」
「できるさ」

さっとラファの手から魔弾銃を取り上げて、トレイズが力強く言った。
「一緒に行こう、ラゼ。ルセルさんの言うことなんて聞かなくていいんだ。
俺がどこだって連れてってやる。俺はお前の兄ちゃんなんだから。
この世界には花畑だけじゃなくて、もっともっと他にもたくさん、
たーくさん、楽しいものがあるんだ。
ルセルさんとやらはお前が邪魔だから死ななきゃいけないらしいが、
俺にとっては邪魔じゃないよ。
だから、お前は生きていていいんだよ、ラゼ」

そうしてトレイズは、自分たちが脱獄した要領で、
魔弾銃をぶっぱなしラゼを牢から引っ張り出すと、
やせ細った彼女の身体をぐいと抱き上げた。
ラゼが慌ててトレイズの首にしがみつく。

「ねえ、私、ここを出ちゃいけないのよ!」
「お前の母さんは、ちょっと出かけるのも許してくれないのか?
たくさん、今まで見れなかったものを見て、
それから、母さんに思い切り自慢しに戻ってくればいい。だろ?」

強引にトレイズがラゼを言いくるめようとしているのは分かっていたが、
ラファはあえて口を噤み沈黙を守っていた。
この薄暗い牢獄で華奢な少女が一人死んでいくのを容認できるほど、
ラファは残酷にはなれなかった。

ラゼはトレイズの台詞を素直に信じて、嬉しそうに顔を輝かせた。
「待って、私、あなたたちの名前を知らないわ!」
「トレイズ・グランセルド、そっちのノロマはラファだよ。
ラファのことはどうとでも呼べばいいけど、出来れば俺のことは
『お兄ちゃん』とでも呼んでほしいな」
「お兄ちゃん!私ね、私ね、お兄ちゃんがほしかったの!」
「…ノロマで悪かったな」

すでに牢獄散策でへとへとになっていたラファは毒づいた。
幸せ一杯のトレイズたちには全く聴こえていない。
それでいい、流石に彼らの幸福に茶々を入れる気にはならなかった。

しかしいかにラファが兄妹の仲睦ましげな様子を祝福しようとも、
全ての者がそうではないことを彼は失念していた。
前方のトレイズにつられて足を止めると、
目の前にエルフの集団が、死神でも見つけたかのような慄きの表情で、
得物の切っ先を一斉にこちらに向けていた。

「き、き、貴様らァッ!一体何を、なにをしているのだ!」
「何って脱獄さ。妹を連れて逃避行するんだよ」
「何だと!?ゆ、許さん!許さんぞ!」

口々にエルフたちの罵倒が続き、石の壁に跳ね返って、
彼らの騒音で飽和状態になった。
と、トレイズがラファを振り返りざまに何かを投げてきた…先ほどの魔弾銃だ。
「もう一度貸しとくぜ。やっこさんたち、
俺たちに突っ込んできたら怖いんでね」
「お、おい、トレイズ…!」
「お兄ちゃん、あのひとたち、邪魔なの?」

淡々とラゼが尋ねてきた。トレイズは舌打ちする。
「…まあ、邪魔だな」
「じゃあ、殺しちゃえばいいのね!」
「駄目だ!」

名案だとばかりに手を叩いてみせたラゼに、思わずラファは声を張り上げた。
エルフたちはラゼの言葉に警戒した様子で数歩後ずさっている。
すると、ラゼはきょとんとしてラファを見返した。
「どうして殺さないの?邪魔なのに」
「おいおい、ラファ。さすがに俺からも言わせてもらうぜ。
今回ばっかりは多少覚悟しねえと出られないだろ。
お前、死にたくないんだったらあいつらを蹴散らすしかねえよ」
「でも、だけど…っ、俺は人殺しにはならない!なりたくない!やりたくない!」
はあ、トレイズはわざとらしく溜息をついてみせた。
「うすうす感づいてたけどお前って潔癖なのな」

違う、そんなんじゃない!叫びたかったがラファは声が出なかった。
ただひたすらに魔弾銃を握り締めて祈った。
倫理とか秩序とか、そんなものを飛び越えた先にいる彼らに何を言っていいのか、
ラファには見当もつかなかった。
できることといえば、とっくに死んだ神様に祈りをささげることだけ。
俺ってこんなに信心深かったっけ?ラファは笑い出したい気分になった。

どこか遠くへ逃げたかった。こんな薄暗い牢獄はゴメンだ。
誰か、俺たちを早くここから連れ出してくれ!

――随分と荒々しいお願いだな

誰か…「誰か」の、声が聴こえた。
振り返る。見知らぬ銀髪の青年が立っていた。
無造作に銀の髪を後ろでくくっている。瞳は瑠璃色だった。
彼はシニカルな笑みをラファに向けて悠然と腕を組んでいた。
「お前…?」
――お願いをするときは、もっと丁寧にすべきだろう?

クッと引き笑い気味の声を青年は上げた。
それからついとラファに向けて細くて長い指を差した。
――さて、「答え」は出たかな?ヒントは十分与えたつもりだが
「…答え?」
――そう、君が誰なのか、レイリが君に見ているのは誰なのか、
エルが見ているのは?レフィルが見ているのは?
答えはもしかしたら、ひとつじゃないかもしれないぜ

「どういうことだ!?」
――そのままの意味さ。さあ、お目覚めの時間だ。
サービスしてお前の願いも叶えてやったよ。


お前は誰だ、そう言ってやろうとしたら、
その疑問を見越したように青年は微笑んだ。
ひどく悲しげで、切なげで、そう、彼自身も、ラファに誰かを重ねたような…
そんな瞳で、瑠璃を揺らしてこちらを見ていた。

――エルによろしく。
君なら、あるいは…世界の理すらも乗り越えて、
いずれは俺のところにたどり着くのかもしれないね


青年の姿が遠ざかっていく。ラファは手を伸ばした。
待ってくれ!あんたにはまだ聞きたいことがあるんだ。
喉元まで、思いついた彼の名前がせり上がってきていた。



「……レーチス!!」

叫ぶと、面食らった様子でトレイズとラゼが振り返った。
ざあ、ごつごつした岩場を風が駆け抜ける音がする。
閉塞感のある牢獄の空気はどこにもなく、燦々と降り注ぐ太陽のもとで、
三人はいつの間にか見知らぬ場所に立っていた。

エルフの集団はどこにもいない。
ラファは中途半端に腕を伸ばした格好のままで、
トレイズはラゼを抱き上げたままで、
ただただその場に立ち尽くしていた。

「あ、あれ?」
間の抜けたトレイズの声。
「俺たち、今の今まで…牢獄にいたんだよ、な?」
「ここはどこ?」
呆然とするトレイズに反してラゼの声音は明るく無邪気なままだった。
面白い手品を見たつもりでもいるのだろう。
ラファ一人、すぐさま事態を理解して、舌打ちした。
「まただ!また勝手に移動した!」
「またって…まさか、今のがお前の話してた、
『色んな場所に飛ばされる』って現象か?
ハッ…こりゃ、便利だな」

驚きの表情のままトレイズは半笑いで辺りを見回した。
岩場。この寒々しい空気は、きっと北のほうだろう。
ラゼがぶるりとひとつ震えた。
「…とにかく、こんな場所じゃゆっくり話もできやしねえな。
ひとまず人里を探すか。オイラファ、案内よろしくな」
「案内といっても…」

どうしていいのかラファにもさっぱりだった。
これまではエルミリカやチルタといった道案内がいたからいい。
ゼルシャの時だって運良くすぐに村に出られた。
しかし、四方を大きな岩に囲まれたこの場所で、
一体全体どこに向かえというのか。

途方にくれて、何か目印になるものはないかと思案したとき、
前方遠く、岩の奥から黒いものがざっと飛び出してきた。
人の形をしている。
「人だ!あの人に聞いてみよう!」
「あ、おいラファ、一人で突っ走ると転んじまうぞ」

トレイズの忠告もどこへやら、ラファは足をもつれさせながら走った。
だんだんと影が濃くなる。黒っぽい人影は長い足を伸ばしてこちらに向かっている。
その輪郭がゆっくりあらわになってきて、ラファは仰天して足を止めた。
相手もそうだった。彼は小岩に足をかけたままで、
ぽかんとした様子でこちらを凝視した。

彼の黒い髪がさらりと風に遊ばれる。
黒曜の瞳がみるみるうちに険悪なものになり、
暴君…ルナは一瞬のあと、思い切り怒声を浴びせてきた。

「ラファ!どこに行ってたんだお前!」
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