03.モール橋
深緑の木々が穏やかな風に吹かれている。
ラファは呆然と、目の前に広がる風景を眺めて、
それからつぶやいた。
「ここ…どこ」
がさり、茂みの葉の音を鳴らせてレインが立ち上がり、周囲を見回す。
何かを思い出すように蜜柑色の瞳を細めて、
それからあっと声を上げた。
「ここ、モール橋だよ!レクセディアとインテレディアの国境!」

インテレディアとレクセディアは、大陸の東側に隣接している。

その国境は内海から流れる大河・ソーガラル川と、
川の脇に広がるセント・クロスの森の外側に沿って引かれていて、
だから川の中と森の中は完全な無国籍地帯で、
そのあたりは治安が悪く犯罪が絶えないという。
ずっとレクセディアで育ち、国を出るつもりもなかったラファにとって、
縁のない場所だと思っていたのに。

ラファ達が来たのは、セント・クロスの森の、モール橋のすぐそばらしい。
茂みの向こうに見える広大な石造りの橋に、ルナが嘆息した。
「まさか、あいつ、俺たちに転移呪文でもかけたのか…?」
「そうだ!あの女!」

慌てて周囲を見回すが、そこにはあの謎の少女はいない。
どこかでラファ達の慌てふためく様でも見ているのだろうか。
ラファは舌打ちした。
「なんなんだあの女…会うなり変なことばっかり言いやがって」
「ラファ、本当に知らないの?あの子のこと」
「ぜんっぜん!それよりなんだよモール橋って!
おいレイン、お前帰り道わかんないの?」
「うーん…自信ない」

思い切り舌打ちする。
と、ルナは一人口元に右の親指を当てていた。
考え事をするときに口元に手をやるのはルナの癖だ。
「…なに」
尋ねると、ルナはちらとラファを見た。
「あの女だけど、馬鹿らしいって笑ってくれていいが、
もしかしたらとんでもない奴かもしれない」
「はあ?」

座り込んだままのルナと円を作るようにラファとレインも腰を下ろすと、
ルナはうつむいたままで続けた。
「俺、レクセに来る前に、ラトメのフレイリアに行ったことがあるんだ。
あそこの神宿塔、"神の子"がいるところだけど、
あの礼拝堂にひとつ、馬鹿でかいステンドグラスがある」
「わっからないなあ!さっさと言ってくれよ」

ラファが急かすと、ルナは手を下ろした。
意を決したようにラファとレインを交互に見て真剣な口調で言う。

「そのステンドグラスは、聖女クレイリスが描かれてるんだ。
あの女は、あの絵とそっくり、いや、瓜二つだったんだ」
「……まっさかあ」
「ステンドグラスだろ?たまたまってこともあるんじゃないの?」
「いや。しかもその絵じゃ聖女は、右手に銀の長剣と、左手に赤い花を持ってたんだ」

ラファとレインは顔を見合わせて記憶を探った。
クレイリスの右隣の席に突き刺さり、そして無造作に引き抜かれた剣と、
そして左手の指先には、赤い花が摘まれてあった。
しかしルナの想像は彼の言うとおりあまりに馬鹿げていて、
ラファは思わず失笑して、努めて明るく言った。

「でもさあルナ、歴史の偉人だぜ?
それも大昔に死んじゃってるはずの。
あの女もそのステンドグラスを見て、真似してあそこにいたんじゃないか?」
「……クレイリスが何者だったのかは、どの歴史書にも詳しくは載ってない。
あるのは彼女が孤児だったことと、聖女になったことだけ。
それにな、ラファ。本当に馬鹿馬鹿しいんだけど…
歴史書には、『聖女が死んだ』って記述はどこにもないんだ」

レインが息を呑んだ。信じがたい。
だって千年前の話だ!そんな昔の人間が、あんなあどけない姿でそこにいるはずはない!
タイムトラベルでもしたのか?そう笑ってしまいたい衝動に駆られたけれど、
ルナの顔があまりにも深刻そのものだったために、
ラファもレインも二の句が継げずにいた。

「ま、まさか。俺には聖女の知り合いはいないよ!」
「知ってるよそのくらい。
だけどな、どういう理由であんなところに聖女がいるのかは分からないけど、
とりあえずあそこに来る必要があって、
そして、お前を…あるいはお前のそっくりさんを待ってたってことになる」
「そんな…」

理由はよく分からないが、ラファには、
あれが聖女クレイリスだという確信があるようだった。
荒唐無稽な御伽噺だと笑って済ませたいが、
ルナの考えをないがしろにはできなくて、ラファは大げさに腕を振った。
「じゃあ、あれが聖女クレイリスで、俺を探してたとして?
俺たちがこんな場所に飛ばされた理由ってのはなんなんだ?」
「分かるわけねえだろ、俺はエスパーじゃねえんだ」

ルナの黒い瞳が機嫌悪く光った。
こういう時に言及するのはやめたほうがいい。
諦めてレインを見るが、彼もお手上げのようだった。投げやりに言う。
「あの子、確かラファに思い出させてあげなきゃ、とか言ってたよね。
ここに、もしかしたらその聖女の探してる人の手がかりがあるんじゃない?」
「……」

聖女の探し人。一体誰だ。
なんにせよそんな現実離れした話が大嫌いなラファを巻き込んだのだ。
何か詫びさせなければ気がすまない。
「…よし、探すぞ!」
「お人よしだねえ、ラファ君。まさか本物の探し人を見つけて連れてってやるってのか?」
「んなことどうだっていいんだよ!
勝手に人を巻き込んで、しかも無一文だぜ!?帰り道もわからない!
そいつをなんとしてでも探し出して一発殴らせてもらわなきゃ気がすまないんだよ!」
「……ま、俺も気になるからいいけどな」

どちらにせよこのままこうしてても仕方がない。
一同は立ち上がり、ひとまず橋に行ってみようと大通りに出ると、
丁度茂みの前を通りがかったらしい人物と思いきり衝突してしまった。
よろけたラファを後ろからルナが支える。

「おいおい、しっかりしろよ」
「ご、ごめん…あ、すいません」

顔を上げると、そこにいたのはどうやら旅人らしい少年だった。
自分たちとそう変わらない年なのではないだろうか。
鳶色の髪がさらりと夜風に揺れている。
彼は面食らったようにラファをまじまじと見た。

「いいえ、こちらこそ。僕も前を見てなかったから…」

少年はそれから後ろのレインを見て、ルナを見て…ルナのその顔に、目をまん丸に見開いた。
この美顔はもしかして男性にも効くのだろうか、
疑問をそのままにルナを見ると、彼もまた顔を強張らせて少年を見ていた。
…知り合い?

「ルナ!どうしてこんなところに!」
「ち、チルタ…」

少年はその柔和な表情を引き締めてルナに近寄った。
彼のいでたちを頭のてっぺんから爪先まで眺めて、
唇を引き結んで呆れたような声を上げる。

「どこを探してもいないと思ったらこんなところにいたのか。
しかもまたそんなことをして」
「わっ、わあ!言うな!言うな!」

珍しくルナが顔を真っ赤にして慌てていた。
ラファとレインが顔を見合わせて肩をすくめあうのを見てか、
ルナはチルタ、と呼ばれた少年の胸倉をぐいと引っつかんだ。

「そ、それよりお前こそどうしてここにいるんだ!」
「どうして、って…見て分からないの。旅の途中だよ、旅の」
「た、旅?」
「勿論君を探すためのね」

チルタはやんわりとルナの手を離させて、マントについた皺を伸ばした。
ルナの顔がしかめられる。
ラファは意を決して尋ねた。
「ルナ、知り合い?」
「…幼馴染」
「あれ?だってルナって、レクセに来る前は家族も友達もいなくて、
俺天涯孤独の身の上なんだよなー、とか言ってなかったっけ?」

ルナが苛々と舌打ちして爪先をとんとん叩いた。
誰かを殴り飛ばしたいとき、彼はいつもそんな仕草をする。
近くにいるチルタは危ないのではないか…ちらと見ると、
彼は涼しい顔をして真っ直ぐにルナを見ていた。

「そんなことないよ。家族は今も実家でルナを待ってるし、
それに僕だってルナの友達だよ。ねえ?」
「うるせえな…俺はもう実家には戻らねえんだよ。
あんな腐った家にいつまでもいてたまるかってんだ。さっさと滅びちまえ」
「駄目だよ、ルナ。ルナはあの家の当主様なんだから、そんなこと言っちゃ」
「…当主?」

今、聞き捨てならない台詞が飛んできた気がする。
そんな名家のお坊ちゃまだったのか!
目の前のガサツな人間とは結びつかない単語に、ラファは目を白黒させた。
と、ルナはぎらりとラファを睨んだ。

「忘れろ。なりたくてなったわけじゃねえんだから」
「ルナ。言葉遣い」
「…それではチルタさん、我が敬愛なるお父様のところへ行って、
屋敷の者全員に魔弾銃で自殺しろって言ってくれませんかねえ?
ハッ、どうせ欲しいのはこのイヤリングだろ、
それともコイツを持ってルナはもう死にましたとでも言ってくれてもいいぜ」
「ルナ!冗談でもそんなこと言わないで!」

チルタが厳しい表情で叫ぶ。ルナは鼻を鳴らしただけだった。
溜息をついて、チルタはラファとレインに視線をやった。
「ルナの友達?」
「え、うん…」
「そう。ルナが世話になってます。
僕はチルタ。ルナの護衛だったんだけど…
家出なんてするから僕が何年も探してたんだ。
とりあえず見つかってよかった」

最後の言葉はルナに向けたもののようだったが、ルナは何も言わなかった。
チルタから顔を背けて、俺は帰らないからな、と呟く。
と、少年は苦笑した。

「まあ別にルナが戻ろうと戻るまいと僕はどっちでもいいけど。
ルナが元気にしててくれるならね」
「へっ、よく言うぜ。俺がピンピンしてることくらい分かってただろ、お前なら」
「分かってたけど、さすがにレクセの学生服着てこんなところにいるとは思わなかった」

唐突に話が戻ってきて、ラファはしばし呆然とした。
そうだ。そういえば俺たち、レクセにいないんだっけ。

ルナも思い出したらしい。舌打ちして、チルタに問う。
「おいチルタ、お前金持ってねえ?
それか転移呪文、使ってくれよ」
「うん?」

チルタは首をかしげた。
「どこに行くつもり?」
「レクセに帰るんだよ。俺たち、聖女の格好した女に、
よく分からねえんだけどこんな辺境地に飛ばされちまった」

粗方の事情を説明すると、チルタは眉をひそめてラファを見た。
先ほどの、ルナの友人に向ける視線ではない。
まるでこちらを値踏みするような、疑心に満ちた目をしていた。
それに居心地が悪くなって、ラファは顔をしかめた。

「それは…もしかしたら、帰らないほうがいいかもしれないよ」
「どうして!」
「その人はラファ君を探してたんだろう?
それに、呪文もなしに人を三人も転移させるなんて相当な魔術の使い手だよ。
…戻ったら、何があるか分からない。
その人が何を目的として君と…あるいは君に似た誰かに会いたかったのかは知らない。
でも、少なくとも君は狙われている。
ともすればのこのことレクセに戻るのはお勧めしないな。
勿論、レイン君やルナもだよ。君たちもその子と接触したんだろ?」

チルタのその台詞は妙に説得力があった。
少なくとも当事者であるラファはごくりと唾を飲む。
レインが不安そうに声を上げる。

「じゃあ…どうすれば?」
「うーん、僕は…ラファ君の言うとおり、
そのクレイリスらしき人物の探し人について調べてみるべきだと思う」

部外者が勝手なことをごめんね、と微笑んで前置きする。
ルナが機嫌が悪そうにほんとだよ、と呟くのに苦笑して、チルタは続けた。

「過去夢の君、というのは聞いたことがある。
人の過去を読み解いたり、または過去を変えることができるっていう、
伝説の魔術師のことじゃなかったかな。
よくは覚えてないけど…」
「過去を、変える?」

そりゃまた魅力的な魔術師ではないか。
ラファは内心でこれまでの後悔や思い残しを振り返る。
それが無くせるとしたら素晴らしい魔術だと言える。

「そりゃなりたかったな、過去夢の君!
だけど残念だな、俺は魔術は人並みの一般人だ」
「確かに、そいつは人違いだな。ラファみたいな馬鹿には無理だ」
「ルナ!」
「あはは、それじゃあ過去夢の君について調べれば聖女の探してる人が分かるってことかな?」
「多分ね。
そうだな…聖女の時代について調べるなら、
ラトメあたりに行くのが妥当だと思うけど」

ラトメディア。確かモール橋を渡って湿原を抜けた先に首都フレイリアがある。
ついでだから、ラトメにあるというそのステンドグラスも拝んでやろうではないか。

不思議と不安は無かった。
頼もしい親友であるルナやレインが一緒だからかもしれない。
自分がその聖女の探し人でないという確証が、心の中で浮かんできたせいかも。
ラファはにやりと笑って、ルナとレインを見た。
「よし、行こうぜ、ラトメディア!」
「うん!」
「じゃ、チルタ。三人分の旅費、よろしく頼むぜ」

さっさと橋を渡ろうと行ってしまう三人組の背を見て、
残されたレインは諦めたようにひとつ溜息をついた。
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