33."神の子"とノルッセル |
|
ふと気がつくと景色が変わっていた。 装飾の様子から見るにロゼリーの宮殿には違いないようだが、 そこは華美な私室のようなところで、真っ白で上品な意匠を凝らされた丸テーブルを囲み、 二人の女性がティータイムと洒落込んでいた。 ラファは薄いティーカップを口に運ぶ女性の片方を見て息を呑んだ。 今よりも髪が短く、どことなく気取った表情をしているが… 間違えようもなくそこにいたのはエルミリカ・ノルッセルだった。 ウラニアはエルミリカ皇女の数歩後ろに立って給仕を務めている。 皇女の向かいにいる濃紺色の髪の女性はどこか浮世離れした印象で、 陶器のような白い頬を薄く染めてふんわりと微笑んでいる。 「まさか、エルミリカ皇女殿下とお茶を楽しむ日が来ようとは思ってもみませんでしたわ。 これはこちらの国の茶葉ですの?」 そよ風のようにか細い声は、しかしどこか威厳を持って部屋に響いた。 頭の中でウラニアが解説する。 『その方はサイ様。世界創設者の一人で、当時の"神の子"の座に就いておられたの』 「"神の子"?」 ラファはとっくりと彼女を見て、ユールとの共通点を探そうとしたが、 似ているのは精々その穏やかな物腰程度で、 千年も昔の人間との類似点を見つけるのは一筋縄ではいかなかった。 しかしラファの試みはすぐに中断された…嘲るような笑みを、エルミリカ皇女が浮かべたからだ。 これまでその顔は柔らかで慈愛に満ちた笑みを浮かべたところしか見たことがなかったので、 ラファはすっかり面食らってエルミリカを見た。 「わらわも同じよ。我ら"蹄連合"の同志でもなければ、 ソリティエ分家のそなたと、ノルッセル王家たるわらわが卓を共にすることもあるまい」 口調もラファの知るエルミリカとはまるで違い、 やはり彼女と目の前の皇女は別人なのだと認めざるを得なかった。 なるほど、姿かたちが入れ替わっても、現代に存在するエルミリカ・ノルッセルは、 あくまでウラニアの心を持っていることに違いはないらしい。 エルミリカ皇女の言葉遣いは仰々しく、そして尊大だった。 まるで、世界で自分こそが一番偉いのだとでも言いたげだ。 しかし皇女のそんな口調を気にも留めずにサイはくすりと笑い、 今度は皇女の背後に控えたウラニアに目を留めた。 「そこの侍女、この茶葉はなんというのです?」 「エソル茶でございます、サイ様。ロゼリーの山岳部で採れる、 最高級の葉をご用意いたしました」 「ふふ、ウラニアの淹れる茶ほど美味いものはない」 「有り余るお言葉でございます、エルミリカ様」 恭しく一礼したウラニアを見るエルミリカ皇女の視線にラファは首をかしげた。 いち侍女に対して熱っぽいまなざしを送る彼女の様子は、 明らかに使用人に向けるものではなかった。 「こいつ…」 ラファがウラニアに尋ねようとすると、頭の中で彼女はくすりと笑った。 しかしそれだけだった。どうやら答えたくない質問らしい。 その時、ウラニアが何かに気を取られたように窓の外の一点を注視した。 エルミリカとサイの会話にも耳を傾けず、ひたすらにじっと外を眺める侍女の様子に、 ラファは彼女の隣に立って視線の先を追った。 窓の外は広場だった。おそらく先ほど廊下から見た景色と同じ庭だろう。 見下ろすと、三人の男女が和気藹々と話している。 一人は目立つ銀髪で、誰だかすぐに分かった…レーチス・ノルッセルだ。 彼はあのメイドに見せた微笑よりもずっと眩しい笑顔を浮かべていた。 彼の向かい合う先には、茶髪の男女がいる。 クレイリスと、いつか見たレフィルという少年だった。 「あれ…!」 『あの三人は親友同士だったの。彼らが蹄連合に入る前からの知り合いで、 レフィル様とレーチス様は同じ道場で育った兄弟のようなものらしいわ。 いつもあの三人は一緒にいて、わたしも随分仲良くしてもらっていた…』 感慨深げにウラニアが呟く。ちらと隣に立つ少女を見た。 おそらく頭の中のウラニアも同じ顔で語っているのだろうとラファは推察した。 まるで、自分にないものをうらやむような、そんな切なげな視線だった。 すると、ふとレーチスが上げた目線と、ウラニアのまなざしがかち合った。 ウラニアの肩がひょいと跳ねる。レーチスがくすぐったそうに微笑む。 隣の彼女は慌てた様子でわたわたと窓から顔をそむけた。 レーチスに視線を移すと、彼は優しげにそんなウラニアの背中を見据えている。 が、彼もまたクレイリスに声をかけられて彼女から目をそらした。 初々しい二人の様子に首をひねる。 「もうウラニアとレーチスは付き合ってる頃…か?」 『さあ…わたしたちのこの頃の関係はとっても曖昧だったから。 お互い、はっきりと好きだと言い合ったわけではないけど、 特別な者同士だと思いあってる、そのくらいの関係だったかしら。 …ああ、ラファ君、わたしの後を追って』 部屋の中に注意を戻すと、エルミリカ皇女に言われて、 ウラニアがお茶菓子の換えを取りに出るところだった。 慌てて彼女の閉めようとした扉の隙間をすり抜ける。 すると、勢いあまって扉の外でウラニアを待ち構えていたメイドにぶつかりそうになって、 ラファは慌てて姿勢を正した。 「ちょっと、ウラニア」 ウラニアが扉を閉め切るのを確認してから、先ほどレーチスに言い寄っていたメイドが声を荒げた。 「どういうつもり?」 「あの、何がですか?」 不可解そうにウラニアは眉をひそめた。 すると逆上してメイドはウラニアの腕をひっつかむ。 「レーチス様のことよ!アンタみたいな一介の侍女風情が、 釣り合う相手だって本気で勘違いしてるわけ?不細工のくせに!」 ウラニアは困ったようにちょっぴり眉尻を下げた。 上目遣いにメイドを見てから、いずこかへと歩き出す。 メイドがいきり立った。 「ちょっと、待ちなさいよ、逃げるの!?」 「ここではエルミリカ様やサイ様に聞かれてしまいますから… あの、わたしとレーチス様が分不相応だということは、わたし自身がよく分かっております」 歩きながらはっきりとウラニアは言い放った。 メイドが勝ち誇ったように胸を張る。 「じゃあ…」 「でも、それはあなたも同じでしょう? 確かにあなたは私よりも綺麗な顔をしているけれど、 わたしとレーチス様がなんの関係も持たなくなったとしても、 あなたとレーチス様が釣り合っているとはいえないのではないかしら」 冷ややかに言ってのけたウラニアの背中を追いながらラファは目を瞬いた。 彼女の痛烈な揚げ足取りがあまりにも自然だったものだから、 ラファの隣を行くメイドも一瞬何を言われたのかわからなかったらしい。 しかし、みるみるうちに彼女の顔が真っ赤に染まりあがった。 「何よ、お高くとまっちゃって! どうせレーチス様にも身体で迫ったんでしょう!」 「…馬鹿を言わないでください!」 ウラニアが振り返って、きっとメイドを睨み上げた。 「レーチス様はそんな軽薄な方じゃないわ!」 「さあ、どうかしら」 形勢逆転したとばかりにメイドがにやにや笑った。 確かに、ラファはメイドの台詞を認めざるを得なかった。 少なくとも、彼女と逢瀬の約束をしていた様子を見るに、 レーチスが恋愛ごとに関してお堅い考えを持っているとは思えなかった。 しかしウラニアはそうではなかったらしい。 レーチスを侮辱されたと憤っている彼女は、相変わらず彼氏の悪癖を知らないらしい。 ウラニアは悔しげに唇を噛んだ。そこにメイドが追い討ちをかける。 「レーチス様は本当はクレイリスのことが好きなんだって、誰だって知ってるわ。 どうせアンタのことなんか相手にされてないのよ」 「それは…」 ウラニアは言い返さなかった。庭で仲睦ましげに馴染みの顔と話すレーチスを思い出す。 けれど、ラファはこのメイドの台詞には納得がいかなかった。 先ほどのウラニアを見つめるレーチスの視線は、 エルミリカ皇女がウラニアに向けるそれとあまりにもそっくりだったのだ。 ウラニアが口をつぐんだところにメイドが更に罵声を上げようと口を開くと、 廊下の角から誰かがこちらに曲がってきて、二人の侍女は顔を強張らせた。 「なんの騒ぎだ?」 「に…ニカ様」 濃紺の髪の、厳しい顔をした男性は二人の侍女を見ても顔色一つ変えなかった。 雰囲気はまるで違うが、顔のパーツはサイによく似ている。 どうやら兄弟かなにからしい。 ニカ、と呼ばれた男を見るなりメイドは慌てて後ずさった。 「な、なんでもございませんの。ちょっと夕飯のメニューのことで相談があって… それじゃあねウラニア!」 言うが早いか足早に立ち去っていくメイドの後姿を見送ってから、 ニカはウラニアを見下ろした。男は相当に背が高くガタイも良いため、 ウラニアは彼の前では小さな子供のようだった。 「…お見苦しいところを、申し訳ございません、ニカ様」 ウラニアが縮こまりながら陳謝した。 しかし、蛇に睨まれた蛙のように怯えている彼女にもニカは鼻を一つ鳴らしただけだった。 「別に」 にべもない答えだ。 「お前たちの噂は連合にも届いている。 レーチスの奴が波乱を呼んだようで、すまないな」 「そんな!恐れ多いことです!」 青ざめたウラニアが首を横にぶんぶん振ると、ようやくニカの仏頂面にかすかな笑みが灯った。 「…お前は、ノルッセルの血族なのか?」 「……母が、アラベスク様の従妹です。 けれど、私は直系と申し上げるのもおこがましい端くれにございます」 「ふうん、銀の髪と瑠璃の瞳か。この国はどうでもいいものに固執するな」 「恐れながら、…その容姿は、誉れ高き双子神エルからの賜りものにございますので…」 「姉上も時折そんなことを言う。ふん、下らない話だ。 ノルッセルとソリティエの不和も、頭の固い連中がそうだと決め込んでいるから、 いつまでたっても消えないのだ。そうは思わないか?」 「わたしなどには…なんとも…」 「いや、そうに違いない。でなければ、何故ソリティエの一族たる私と、 ノルッセルの末裔たるお前がこうして立ち話に興じることができるんだ? レーチスだってそうだ、あれは誰とでも打ち解ける能力を持っている。 エルミリカはソリティエ一門を頑なに拒んでいるがな」 「そんな、エルミリカ様は、そんな…」 途方に暮れた様子でウラニアは俯いた。 ラファはニカの台詞にじっと聞き入った。 不老不死一族の不和。誰も彼もが、「そうなるようにできている」、 そう信じ込んでいて、そしてラファとルナの関係に首をかしげた。 エルは、ラファに「特別な力」があるのだと言った。 けれど、ウラニアやレーチスも、ラファと同じように、 他の不老不死一族と仲良くできる能力があるとでも言うのだろうか? ニカは流石に苛めすぎたか、と呟いた。 きょとんとしてウラニアが視線を上げると、 廊下の奥から「おい、ニカ!」と喧嘩腰の声が飛んできた。 見ると、レーチスが息を切らして駆け寄ってきて、 ウラニアとニカの間に、少女を庇うように割り込んだ。 「ウラニアに何やってんだよ、こいつに手出すなって言っただろ!」 「別に手を出していたわけではない。 ほんの世間話をしていただけだ」 「お前が侍女とただの世間話なんかするわけないだろ…」 半眼でニカを睨んでから、レーチスは今度はウラニアに向き直り、 彼女の肩をひっつかんで労わるように少女に目線を合わせた。 「ウラニア、こいつになんか変なことされてないよな?」 「そんな、本当にただお話をさせていただいただけです。 レーチス様、ニカ様はわたし風情にそんなことをされる方ではありませんわ」 「…呼び捨てでいいって言ってるのに」 拗ねたようにレーチスはぼやいた。 ウラニアは困った様子で視線を彷徨わせた。 メイドとのやりとりが尾を引いているのだろう、ラファはぴんときた。 「ええと…レーチス様、クレイリス様がたはよろしいのですか?」 「あいつらなんてどうでもいいよ。どうせあいつらとはいつでも話せるんだ、暇人だし。 ウラニアが部屋を出るのが見えたから会いに来たんだよ」 それからレーチスはにっこりと幸せそうに笑った。 戸惑いながらウラニアが微笑みを返したところで、 彼はニカを邪魔だとばかりに胡乱気な視線を送った。 「邪魔だよ、さっさとどっか行けよ」 レーチスは口に出してさえそう言った。 しかしニカは気分を害した様子もなく、ひとつ肩をすくめると、 最後にちらとウラニアに視線を送った。 「ではな、侍女。精々その魂を汚さないことだ」 振り向きもせずに立ち去っていったニカを呆然と見つめるウラニア。 彼女の様子にむっつりと口をひん曲げたレーチスは、 ウラニアをぐっと抱き寄せて額を寄せた。 「なあ、ウラニア、今日はいつ仕事終わる?会いに行ってもいい?」 その声がとびきり甘やかだったので、ラファは砂でも吐きそうな心地だった。 気まずそうにニカの消えていったほうに視線をめぐらすと、 頭の中でずっと黙り込んでいたウラニアがくすくすと笑った。 『別の記憶に行きましょうか』 え、と声を上げると同時、場面はすでに移り変わっていた。 廊下の窓をじっと眺めるレーチスの背後に、 居丈高な笑みを浮かべたエルミリカ皇女が立っている。 レーチスはつまらなそうに窓の外にばかり視線をやって、 エルミリカ皇女には全く見向きもしない。 二人は同じものを見ているようだった。 レーチスの隣に立つと、大きな紙袋を抱えたウラニアとクレイリスが、 にこにこと笑いあいながら城の中庭を突っ切っていく。 笑みのひとつも浮かべずにその様子を見つめるレーチスに、 とうとうエルミリカ皇女が声をかけた。 「…愛い奴よ、つくづくもって」 ウラニアのことを指しているのだとすぐに分かった。 エルミリカは侮蔑するようにレーチスを見ていた。 「小童のような"男"に奪われるのは勿体無い。 貴様もクレイリスあたりで妥協しておけばよかったものを」 「妥協って言い方は好きじゃないな。 レイリは親友だ。それ以上でもそれ以下でもない。 それに、俺はアンタにだけは譲らないよ、同性愛者の暴君様」 レーチスは真顔でエルミリカ皇女を見た。 その瑠璃色の瞳には、皇女に対する敵意がじんじんと滲み出ていた。 エルミリカは歪んだ笑みを浮かべる。 「これだから男というものは嫌いなのだ。 誠実な振りをして女を支配下に置きたがる… ウラニアもいずれ気づくだろうよ、貴様がどれだけ狡猾な人間かを」 「狡猾さ。アンタも人のことは言えないけどね」 レーチスは再び窓の外に視線を戻した。 「いつか絶対、ウラニアをアンタから引き離してやる」 「やれるものならやってみるがいい。 どうせ、最後にはウラニアはわらわの元に戻ってくる」 不穏な空気にラファが口を開き、ウラニアに声をかけようとした刹那、 再び光景は変わっていた。 まるで見せてはいけないものを覆い隠すかのように。 それに不平を言おうとしたが、ラファはすぐに口をつぐんだ。 次の光景には、夕焼けを眺めながら二人の男女、 ウラニアとレーチスが、旅にでも出るような荷物を抱えて立っていたからだ。 「いいの?」 レーチスが念を押すように尋ねた。ウラニアはくすりと笑う。 エルそっくりの、なにもかも受け入れた達観した微笑みだ。 「そう言ったって、離してなんてくれないのでしょう? わたしはもうレーチス様を選んだんです。いつか、エルミリカ様も分かってくれる」 そうであればいいというような口調だった。 ウラニアはそっと自分の腹をさする。 その肩を抱いて、レーチスは空いた左手を彼女の腹を撫でる手に添えた。 「大丈夫?」いたわる調子でレーチスが言った。 「はい。今日はだいぶ楽みたいです。 旅立ちだから、この子もわたしを気遣ってくれたのかしら」 実に幸せそうに、ウラニアは笑った。レーチスの顔も綻ぶ。 ラファは、彼女の腹の中に子供が出来たのだと戦慄した。 そういえば、"黒い本"にも書いてあったではないか。 ウラニアは、レーチスとの間に子供を身ごもって… そうだ、そして、それがエルミリカ・ノルッセルに感づかれたのだと。 ラファは言葉を発することが出来なかった。この先の結末を知っていた。 彼らのこの満ち足りた笑顔が崩れる瞬間を想像したくなかった。 「男の子かな、女の子かな」 興奮気味にレーチスが言った。しょうがない人だとでも言いたげに、 ウラニアはくすくす笑う。「どっちでもいいです、わたしとレーチス様の子だもの」 それから続ける。 「……男の子だったら、わたしに名前をつけさせてくださいね。 わたし、もう考えてあるんです」 「え、なに?」 レーチスが顔を寄せる。ラファは無意識のうちに一歩前に出ていた。 ウラニアの正面に。頭の中の彼女は何も言わずに見守っているらしい。 ウラニアは顔を上げた。彼女に自分のことは見えていないはずだ。 きっと彼女の視線はラファを素通りして、その向こうの夕焼けを見ているのだろう。 しかし、ラファには、彼女がまるで自分の顔をまっすぐに見つめているように感じた。 次の瞬間、ラファはその場に立ち尽くす。全ての時が止まった。 「ラファ」 「………!!」 「…ラファ?」 ラファは息を呑んだ。自分の名を呼ばれたと思ったからだ。 しかし彼女はラファの反応など気にも留めず、歌うように続ける。 「そう、ラファ。古代の言葉で、"遥か"。 ずっとずっと遠くまで、わたしたちと繋がっていられるように。 どこにいても、誰かに見守ってもられるように。 彼方まで、何かを運べるような子になれるように。 …素敵な名前だと思いませんか?」 ラファは何も言えなかった。 自分の名前にそんな意味があったこと自体初耳だし、 第一、これは千年も昔の話なのに、まるで、まるで。 自分のことを言われたかの、ような。 二の句が次げずにその場に立ち尽くしていると、 二人の傍に近寄る影が見えた。…ニカだ。 「話はそのくらいにしておけ。馬車の用意が整った。…いいのか?」 「俺はいいよ。レイリもレフィルも許してくれたしな。 …悪いな、連合を捨てる形になって」 レーチスの軽口に、ニカは鼻を鳴らした。 「そう思うのなら、そこの侍女のことを精々死ぬまで大事にすることだ。 任せておけ。お前一人いなくなったところでこちらは痛くも痒くもない」 「言うなあ」 笑うレーチス。ふとニカは複雑そうな表情を浮かべた。 気まずそうにウラニアの腹をちらと盗み見る。 「お前たちの子供も、きっとそんな風なのだろうな」 「え?」 「お前たちの前には、不老不死も、エルフも、孤児も王族もなにもない。 きっとそういう才能があるのだろう。 おそらく、お前たちの子供も、その血を受け継ぐのだろうと思っただけだ」 それからニカは踵を返した。レーチスとウラニアは顔を見合わせる。 やがて、どちらともなく噴出すと、互いの手を握り締めてゆっくりと歩き出した。 ラファは追えなかった。二人の背中がどうしようもなく大きく見えた。 何をしたって敵わない、高い高い壁のように、目の前にそびえ立っていた。 「ラファ」 唱えるように、何度かレーチスが繰り返した。 そのたびにラファは、情けなく肩を震わせた。 「ラファ、ラファ、…ラファかあ」 「レーチス様、そんなに何度も言わないでくださいな」 「だって男の子が生まれたらその名前になるんだぜ? 今から泣かずに呼べるように練習しなきゃ」 「ふふ、レーチス様ったら」 だんだんと背中は遠ざかっていくのに、二人の声はやたらと鮮明に耳に届いた。 「レーチス様は女の子の名前を考えるんですよ? そう思うなら、もっと素敵な名前を考えてくださいね」 「え?責任重大だなあ」 気楽に笑い声を上げる二人。ラファは追えなかった。 すると、不意にウラニアがこちらを振り返った。 ラファはどきりとする。彼女の視線がこちらに向いていたからだ。 「ん、どうした、ウラニア?」 「……」 ウラニアは黙ったままだ。目を僅かに見開いて、じっとラファを注視している。 まさか、自分が見えているのだろうか?周囲を見回すも、人気はない。 しかし、そうではないことはすぐにわかった。 呆然としたままウラニアがつぶやいた。 「……煙が」 「え?」 前方を行くニカも立ち止まった。三人ともこちらを見る。 ラファは背後に並ぶ夕焼けに染まった山々を見た。 オレンジ色の手前で黒く染まる山並み。 そして、そのある一点から、確かに灰色の細い線のようなものが、 長く長く、天向けて伸びていたのだ。 ラファは高台のようなその場所から下を見下ろした。 山並みの麓、村のような家々が並ぶ集落から、 炎のような明かりがいくつも灯っていた。 ひやりと、背筋が凍った。 「……まずい」 ニカが漏らした。レーチスが表情を一転させ、 厳しい視線でこちらに駆け寄り、高台を囲む柵に両手をついて身を乗り出した。 「…敵襲?なんで!ロゼリーの場所はシェイルやレクセには割れてないんじゃ…」 「誰か漏らした者がいたのかもしれん。 二人とも、早く馬車へ。混乱に乗じればはやく国を出られるだろう。 私ははやくあの村へ行かなければ。 大丈夫、あそこは王城からは離れている」 「そんな!」 ウラニアが悲痛な声を上げた。 「あの村には王城へと続く裏道があるんです! そのことが明かされてないなら、連合軍にあの村を襲う必要はないはずです! 連合軍に首都の場所はもうばれているんだわ!」 レーチスとニカがはっと息を呑んだ。 二人に息つく暇も与えずに、ウラニアはレーチスの胸に飛び掛った。 抱きつくように彼につかみかかって、必死の表情で叫ぶ。 「お願いします、レーチス様、戻って! エルミリカ様が危険だわ!」 「だけどウラニア!その身体で戦いの場所に行くのは危険だ!」 「でも、でも…!」 ウラニアは肩を震わせて泣いていた。 未来を知っているラファにとっては、レーチスの答えは分かりきっていた。 「…君を、戦場になんて行かせたくない」 「でも、レーチス様!」 「嫌だ!分かっているのか、今の君は、自分以外の命を抱えてるんだぞ!」 「!」 ウラニアがそっと自分の腹をさすった。 「……あなただって、あなただって行きたいのでしょう」 「行きたいさ!だってあそこにはレイリもレフィルもいる! だけど…」 「嫌です!レイリもレフィルさんも、わたしにとっても大切な人です! レイリは私の親友でもあるんです! エルミリカ様も、母も、陛下も、あそこにはたくさんの、 わたしを守ってくれた方がいらっしゃるのに!」 「……」 レーチスも苦渋の表情を浮かべていた。 おそらく、彼だって首都に行きたくてたまらないのだろう。 ニカは黙って二人の判断にゆだねることにしたようだった。 やがて、レーチスが口を開いた。 「…君や子供を、危険にさらしたくない」 「でも!」 「だから!……見て、そしてエルミリカ達に忠告に行くだけだ。 今ならまだ軍も首都にはたどり着いていないだろう。 宮殿に転移して、エルミリカ達に危険を伝え、 逃げるように指示したらすぐに国を出る。それでいいね?」 レーチスの口調には、どこか懇願するような響きがあった。 頼むから首を縦に振ってくれとでも言いたげだった。 ウラニアはやがて戸惑いながら頷いた。 一瞬、レーチスの顔に悲壮な表情が浮かんだものの、 すぐに気を引きしめてニカを見る。 「悪い。宮殿まで転移を頼む」 「いいのか」 「……よくない。よくないけど… 今ならまだ、みんなを救えるかもしれない。 杞憂だといいけど……」 「お願いします、ニカ様」 二人の顔をとっくりと見てから、ニカはやがて頷き、三人は姿を消した。 ◆ 宮殿は閑散としていた。 もう知らせが届いて避難しているのだろうか。 ウラニアは騒ぎになっていない様子の宮殿にほっとしていたが、 レーチスとニカは違った。顔をしかめる。 「……静か過ぎる」 「まさか、もう軍がここを制圧したっていうんじゃないだろうな」 「そんな!」 ウラニアがぱっと口を手で覆う。ニカが彼女を振り返った。 「ウラニアと言ったか、エルミリカはこの時間どこにいる?」 「お部屋か、占いの間か…ここから一番近いのは広間です、 エルミリカ様でなくともアラベスク陛下にお伺いを立てたほうが…」 「行こう!」 三人は駆け出した。レーチスが途中、ウラニアに負担をかけないように、 彼女を抱え上げて速度を上げる。 しかし、三人の駆け足は長く続かなかった。 広間に続くホールに出たときに、これまでは感じなかった濃い血臭が、 ぐっとあたりに立ち込めて、足元に壮大な違和感を感じたからだ。 「…!」 「ウラニア、見るな!」 咄嗟にレーチスが彼女の頭を自分の胸に押し当てた。 しかし彼女も何が起こっているかはわかっただろう。 まだ軍が来ていないはずの宮殿のホールには、 ごろごろと壊れた等身大の、精巧な人形が…しかし、これが人形などではないことは、 ラファはすでに重々承知だった…あちこちに転がっていた。 ラファは思わず袖で口元鼻を覆った。 不快感がこみ上げる。この状況に、ラファはレナとチルタが、 シエルテミナ家でしでかしたことを思い出した。 「ひどい…」 「皆王家の血縁者か?銀髪に瑠璃の瞳をしている…」 「……!エルミリカ様、エルミリカ様は!?」 レーチスに頭を押さえつけられたまま、エルミリカが叫んだ。 少年は辺りを見回し、訝しげに眉をひそめる。 「…いない、俺たちの知ってる中でも何人か足りない。 陛下もいないみたいだ」 「……母は」 レーチスもニカも答えなかった。しかし、二人の視線は、 広間らしき一際大きな両開きの扉の前で、 銀髪を振り乱しうつぶせに倒れている女性に注がれていた。 ラファは、彼女の足が奇妙な方向にひねられていることに気がついた。 ウラニアはやがて、小さな嗚咽を漏らすようになった。 レーチスが彼女を抱きなおしてニカを振り仰ぐ。 「広間へ…」 「ああ」 ニカが先導して、命ある者の気配を感じられないホールを突っ切り、 両開きの扉に手をかけた。僅かに力を込める。鍵は開いているようだった。 剣をすらりと抜き、レーチスに扉の脇に隠れるよう視線で指示すると、 彼は身体ごと扉を押し開き、転げるように中へ飛び込んだ。 その時、タイミングよく響いた銃声。 ニカに向けられたものではなかった。広間の正面に立っていたラファは、 玉座に細長い、ラファがトレイズに貰ったものよりも大きな筒の口を向けた女性が、 玉座で座り込んだ凛とした女性を打ち抜いたのをまっすぐに見てしまった。 玉座に座った女王と思われる女性は、銀髪を一本たりとも乱さずに、 じっとその弾を額に受け、綺麗な瑠璃色の瞳を開いたまま、がくりと椅子から崩れ落ちた。 ニカも、レーチスも、いつの間にか顔を上げていたウラニアも、 恐怖と驚きに支配された表情で、煙を上げる魔弾銃を握った女性の背を見ていた。 まったく身じろぎひとつせずに女王を見上げていた女性は、 やがてゆっくりと、驚くことなくレーチスたちを振り返った。 ウラニアが、震える唇をこじあけて思わずといった風に呟いた。 「エルミリカ様…」 「おお、戻ったか。わらわは待っておったぞ、ウラニア」 花開くように、エルミリカ皇女は笑った。その頬には点々と赤が飛び跳ね、 ドレスはもう目も当てられないほど赤黒く染まってしまっていた。 あれはもう落ちないな、ラファはそんな場違いなことを考えた。 「あ、あ、あんた…」 あえぐようにレーチスが言った。 「あんた、今、へ、陛下を…」 「陛下?」 嘲るようにエルミリカ・ノルッセルは笑った。 「小童、これだからおぬしは間抜けなのだ。 そこのソリティエの若造ならば分かるだろう? わらわが殺したのが、この愚かな女ただ一人だけではないことは」 「……まさか、広間の前の者たち、全員お前一人でやったことだというのか」 「…………エルミリカ、様?」 エルミリカ・ノルッセルは妖艶に微笑んだ。 「だって、そうであろう?」 両手を広げて、まるで美しい衣装だと見せびらかすように、 血色のドレスを彼らにあらわにしてみせる。 「愚民どもがおぬしを疎外するならば奴らがいなくなればよいのだ。 おぬしが国を要らぬというのであれば、国などいらぬ。 …そうであろう?ウラニア」 名指しされたウラニアは息を呑んでレーチスにすがりついた。 レーチスが、押し殺すように地を這うような低い声で唸った。 「だから、お前は、まさか、お前が密告したっていうのか? 連合軍に?ロゼリーの居場所を?」 「そうだとも!」 出来の悪い子供を褒めるような、しかし明らかに見下したような口調。 エルミリカ・ノルッセルはドレスの裾をつまんでくるりとターンした。 きゅっ、血に濡れた広間の床が高い音を響かせる。 「小童にはできぬ芸当であろうな。 わらわはウラニアのためならば、国も、家族も、何もかも! 捨てることができるぞ!ほら、このとおり!」 そうしてエルミリカ皇女は、今度はその銃口を自らのこめかみに当てて見せた。 ウラニアが悲鳴を上げんばかりに金切り声を上げた。 「やめてえええっ!!」 「あっはははははははははは!!どうだ、ウラニア! わらわはおぬしが望むなら、自らの命だって絶ってみせるぞ!」 「やめてっ!やめてください、やめてください!エルミリカ様!!」 「狂っているな…」 思わず、といった風に口をついて出たニカの台詞を、 エルミリカが素早く聞き取った。 「おぬし、今なんと?」 「狂っていると言ったのだ。これだから不老不死は嫌だな。 嫌な方面に柔軟な思考を持っている」 「はっ!ならばおぬしも同じであろう?ソリティエの若造。 わらわの生を侮辱するでない!」 「そのために人の生を否定するのが正しいというのか!驕りが過ぎたな!」 二人が険悪状態で互いの武器を構える。 レーチスが鋭い声を上げる。 「おい、ニカ!相手に何言ったって無駄だ!エルミリカのペースに嵌るな!」 「私は国を治める者の血族として、こいつのやり方が腹立たしい。 刺し違えてでも止める!」 「やれるものならやってみればよいであろう!」 ニカが駆け出した。エルミリカは銃を構える。 轟音を立てて鉄の筒が火を噴いた。しかしニカは身体をひねって銃弾を避ける。 そのままエルミリカの眼前まで踏み込むと、彼女の顔めがけて剣を横薙ぎに振るった。 ラファは思わず顔を背けた。 エルミリカは、彼の斬撃を全く避けようとしなかったのだ。 「ぐっああああああああああああああああ!!!!」 「エルミリカ様ぁっ!」 「待て、ウラニア!行くな!」 両目を潰されたエルミリカの元へと急ぐウラニアを引き止めるレーチス。 しかし、こんなときに限って、レーチスは床の血溜まりに足を取られてたじろいだ。 その一瞬が命取りだった。 前も見えないままに憤りながら銃を構えたエルミリカの正面にウラニアが踊りでる。 ニカを脇に押しやり、両手を広げて、全てを受け入れるように、 全てを、受け入れるように。 ウラニアは、わらった。 ダァン! 「ウラニアッ!!!!!!!!!」 しかし… その時、ラファは自分の目がおかしくなったのかと思った。 突然映像を切り替えたかのように…エルミリカとウラニアの服装が、変化したのだ。 倒れこんだのは、血色のドレスを身に纏う、茶髪の少女。 銃を持ち立ちすくんだのは、侍女の衣装に身を包んだ、銀髪の女性。 ニカも、レーチスも、目を見開いて瞬きをした。 ぐしゃりと、少女が倒れこむ。 少女は、ウラニアの顔と声をして、酷薄に微笑んだ。 「そうだ…それでいい」 掠れた声で、満足そうに彼女は言った。 「もうおぬしが、疎まれることはない」 銀髪の少女は、切り裂かれた瞼から血を垂れ流して、銃を取り落とした。 それにまた、少女はくつくつと笑う。 「腹の中の命は……おぬしらの"息子"は、未来へ連れて行こうぞ」 ラファは立ち尽くした。 少女の視線が、見えないはずのラファに注がれていた。 「ラファ…遥か……いい名前だ。ウラニアのように、優しい子に…なるだろう…」 こほん、ひとつ咳をするとともに、少女の口から赤い液体がこぼれた。 他の者は、指一本動かすことすらできずに、少女を見下ろしていた。 「あとは…過去夢の君、おぬしが…小童、お膳立てをすれば、 ウラニアは、きっと……きっと幸せに…」 それきり、ウラニアの姿をしたエルミリカ・ノルッセルは物言わぬ屍と成り果てた。 誰も何も言わない。 その中で、ラファ一人、頭の中のウラニアに、問いかけた。 「……二人を入れ替えたのは、レーチス・ノルッセルじゃなかった」 『………この本は間違いだらけね』 ウラニアはくすりと笑った。 『わたしはエルミリカ様を庇ったんじゃない。軍人…ニカ様を庇った。 エルミリカ様に幻滅していた。わたしの家族を殺した仇と思って。 本物のエルミリカ・ノルッセルを覚えていてほしかったのは、 彼女のためじゃない。……わたしが、あんな人と同一人物であることが、 どうしようもなく耐え切れなかったからなのに』 わたしはこの本を書いたとき、こんなにも記憶が改竄されていたのね。 悲しげにウラニアはぼやいた。 |
|
BACK TOP NEXT |