35.作戦会議
「皆さん!」

ラファ達がこの時、この場に来ることを見越していたかのように、
エルミリカ・ノルッセルは手を振りながらこちらに歩み寄ってきた。
レインが大きく手を振り返す。ルナは"黒い本"の内容が気に掛かっているのか、
ふと眉をひそめて彼女の姿を目に留める。
彼女はチルタがいないことに全く関心を示さなかった。
まるで最初からそうなることがわかっていたみたいだ…ラファは、
彼女のまっさらな瞼を注視した。

「どうされましたか?ラファ」
穏やかにエルミリカは目を細めた。笑顔はウラニアそっくりなのに、
ラファには、エルミリカの顔をした誰かが、ウラニアの振りをしているようにしか見えなかった。
「…別に」
そっけなく返すと、ルナがすかさず切り出した。
「おいラファ、見せてやれよあの本。
不気味な本を俺の妹に押し付けられたんだ。見てくれよこれ」

暴君はラファの手から"黒い本"を取り上げるとエルミリカに押し付けた。
エルミリカは目を丸くしてその本を見下ろす。
「これは…」
「お前が著者らしいが、そこに書いてあることはこの世の常識じゃ支離滅裂だ。
どういうことなのか俺たちに懇切丁寧に説明を頼むぜ」
「ルナ、そういう言い方はよくないよ。
もしかしたらエルの言いたくないことなのかもしれないし…」

レインが気遣うようにエルミリカを見たが、彼女は彼の視線などお構い無しに、
本の冒頭部をじっと読んでいる。
その瑠璃色の瞳からはなんの感慨も見出せない。

やがて、エルミリカはぱたりと本を閉じ、目を伏せた。
「……よくこの本を見つけられましたね」
「さあな。そういうのは俺の妹に聞いてくれ。
で、どういうことなんだ?この本の通りだとすれば、
お前は本物の"エルミリカ・ノルッセル"ではないということになる」
「……」

エルミリカは微笑みを絶やさなかった。
小さく溜息をつき、エルミリカはぽつりと漏らした。
「書物などというものは、所詮はまやかしに過ぎません」
「…どういうこと?」
「私は、この本の著者ではない。それが答えです」
「……え?」

三人揃って怪訝な表情をするのにくすりと微笑むと、
エルミリカは踵を返して悠然と歩き出した。
「おい!」
ルナが叫ぶと、エルミリカはくるりと振り返った。
「では、あなた方はそれを知って、何を成すというんですか?」

突き放すような口調だった。こんなに冷めたエルミリカを見たのは初めてだ。
…いや、初めてなのだろうか?ラファはぴんと来た。
エルミリカは相変わらず穏やかに笑っているだけだ。

「私は私。それ以上でもそれ以下でもありません。
ただ、今私がエルミリカと呼ばれている、それだけが真実です」
「ふざけんな!なぞなぞみたいな意味深なこと言いやがって!」
「ルナ!エルにあんまりひどいこと言わないでよ」

レインが止めるが、ラファは何も言わなかった。
ただ前に出て、エルミリカの正面に立った。
彼女の瑠璃色はひどく澄んでいた。
そう、レーチスと二人、いとおしい人を見つめるその瞳と同じように。

「なあ、エルミリカ。
お前は本当に、レーチス・ノルッセルが好きなのか?」

エルミリカのその瞳はラファだけを見ている。
けれど最初は違った。ラファの瞳の奥に誰かを探していた。
ラファは、彼女もまたレーチスと自分を重ねたのかと思ったけれど、違う。
彼女は、

「…好きかどうかはともかく、評価はしていますよ」
「そりゃそうだろうな。レーチスはアンタの思惑通りに動いてくれたんだから」
ラファの切り返しに、エルミリカが表情を固めた。
ルナとレインが顔を見合わせている。
エルミリカは、やがてふと微笑んだ。
「流石に感心しました。その過去をご存知とは。
そこまで力を使いこなせていたとは知りませんでした」
「親愛なるお母様の力がなきゃ無理だっただろうけどな」
ラファはひらひらと手にした白い羽根を振った。
「なあ、ウラニアの振りは楽しかったか?エルミリカ・ノルッセル。
それとも"皇女様"と呼んだほうがいいかな」
「…母親似だと思っていましたが、やはり貴方はレーチスの息子ですね、
ラファ・ノルッセル。その意地汚い性格など彼と瓜二つです」

くっ、と喉を鳴らしてエルミリカは笑った。
その嘲るような表情に、レインが息を呑む。
「え…エル?」
「何故あの単純だけど鼻の効くクレイリスが、あなたをレーチスと思ったのか、
疑問で仕方ありませんでしたが、これで納得がいきました。
あなたはあのいけ好かないレーチス・ノルッセルが若い頃にそっくりです。
普段はただの馬鹿のくせして、ふとしたときに予想を上回る勘のよさを示す。
レクセディアの学生とはいえ野性的ですね」
「なんなら小童と呼んでくれてもいいよ」
「まさか。ウラニアの息子に対してそんなことは言いませんとも」

ずっとずっと、気づいていなかったけど、違和感を覚えていた。
何故、エルミリカは出会う前からラファを知っていたのか?
何故、彼女がクレイリスの想い人を知らなかったのか?
何故、レーチスの話題を避けていたのか?
何故、あんなに信頼しているレインにも、崖から落ちたことについて詳しく語らなかったのか?
何故、何故、何故…

過去に渡って、ようやく分かったのだ。
ラファがウラニアの死から千年経って生まれたのは、エルミリカの謀ったことだから。
クレイリスの想い人を、親友でもなんでもないエルミリカが知るはずはないから。
レーチスのことが嫌いだから。
エルの死について、歴史上の話以上に語れることがないから。

彼女は、まるで自分に成りすましたウラニアの存在がなかったことのように、
あたかもエルミリカ・ノルッセルは一人しかいないとでも言うように、
それでもウラニアの性格を真似て、歴史に誤差が出ないように振舞っていたのだ。

「…話が見えないんだが、ラファ。詳しく説明しろよ」
ルナが苛々と口火を切った。ラファは彼女を見た。
顔をしかめてカツカツと爪先を叩くルナは、
不穏な空気を匂わせてエルミリカを睨んでいた。
「……今の話で分かったと思うけど、この女には"この世界の常識"なんて通用しないんだ」
ラファは息を吸った。

「彼女は歴史にある"エルミリカ・ノルッセル"とは、別人なんだ」



事のあらましを簡単に説明してやると、
ルナとレインは互いに呆然として話に聞き入った。
「ちょっと待て…それじゃ、アレか?
歴史書のエルミリカは実はウラニアで、ロゼリーで死んだ侍女は実はエルミリカ。
じゃあここにいるエルミリカもウラニアなのかと思えば、
実は過去から飛んできたのはエルミリカ・ノルッセル本人?
なんだよその大どんでん返しは」
「しかも夢の中みたいなところでウラニアさんに会ったって…
こんなヘンテコな話を、まさかラファに聞かされるなんて思ってもみなかったよ」

混乱する二人に、エルミリカがくすりと微笑んだ。
「でも、これで分かったのではないですか?」
「なにが」
「クレイリスの目的が」

ラファはエルミリカを見た。
ゼルシャでの、レーチスの台詞を思い出す。

「…クレイリスは俺を見て、レーチス・ノルッセルだと思って、
エルミリカは俺を、ウラニア・ノルッセルだと思った。
クレイリスが"悲しい物語"だと思ってるのは、
…自分が、エルミリカ・ノルッセルを殺したってこと、か?」
「ご名答」
エルミリカは謡うように言った。

「クレイリスは愛するレーチス・ノルッセルを手に入れられない。
彼は永遠に、ウラニアを苦しませたのが自分だという叱責から抜け出せないから。
だから彼女は暗示をかけたんですよ。
"自分は夢を見ているだけだから、最後には幸せな結末になるんだ"とね」
「…あいつは、まるでウラニアと、世界創設者のエルミリカが同一人物だって、
知ってたみたいな言い方をしてた」

「そうして貴方はいつだって彼女を選ぶ!
私は、絶対に貴方にだけは愛してもらえないのよ!
何をしたって、彼女を殺したって!
これは私の夢なのに、だから貴方は私のものなのに!
それなのに、貴方はやっぱり私を愛してはくれないの…?」

二度目にクレイリスと会ったとき、彼女の漏らした台詞。
彼女がウラニアのことを指すのなら、
クレイリスは、この世界の人間誰しもが知るはずのない事実を、
つまり、ウラニアとエルミリカが摩り替わっていることを、
まるで知っていたかのような口ぶりで語っていた。

「あら、それは当然ですよ」
さらりとエルミリカが返した。
「だって、私がクレイリスに教えてあげたんですから」
「…なんだって?」

レインがぎょっとしてつぶやいた。
「エル、君、クレイリスと会ったの?」
「ええ。レーチスはエルミリカの振りをした少女、
つまりウラニアのことを生涯愛していた、とね」
「なんで!」

ラファが詰め寄るも、エルミリカは首を僅かにかしげただけだった。
「憎いからですよ、私からウラニアを奪ったあの小童が。
どうせ彼が苦しんだところで、悲しむウラニアはもういない。
ならばいっそ彼は全てを失ってしまえばいいのですよ。
大切な者も、親友も、そして自分の存在すらも、なにもかも」
「…ハッ、ただ者じゃねえとは思ってたが、ここまでとはな。
アンタ、正気じゃねえよ」

嘲笑まじりにルナが言ったが、エルミリカは胸を張って笑っただけだった。
しかし、対してラファは顔をしかめた。
手にした羽根を握りしめた。…違う。

「違う」
「ラファ…?」
「ウラニアは、ちゃんとここにいる」

自分の胸に手を当てた。
ラファは、まさか自分がこんな夢みたいな話をするとは思っても見なかった。
だけど、知っている。

ちゃんと、ウラニアは今、全ての話を聞いていることを。

「"過去夢の君"の記憶の掃き溜めに、ちゃんといる」
「……」

エルミリカは笑みを吹き飛ばした。
その見下すような視線を見て、ラファはやはり、
どんなに似せても、彼女はエルミリカ・ノルッセル皇女でしかありえないのだと確信した。

「それでも」
やがてエルミリカは笑った。
「わらわはもう、あの子に会うことはできぬ。
なれば、それはもう"いない"ことと同じよ」
BACK TOP NEXT